月の綺麗な晩だった。

老齢の女2人がテラスに腰掛け、緑に濡れた庭とその向こうに広がる雄大なナイルを眺めていた。

砂漠地帯のこの地でも、いやこの地だからこそ緑の木々の鮮やかさは目に染みたし、ナイルを渡ってくる風は爽やかな湿気を帯びて、2人の黒いベールから覗く白くなった髪を撫ぜた。

葬礼の終わった家は、まだ先程までの熱気の余韻を残していたが、遺された2人の間にはただ静かさだけが横たわっていた。

親族だけが集まって死者を護る晩も、故人の意向もあり、今はこの広い家に主人だった者の亡骸とこの2人、そして背後に控える老いた従僕・・・再三の「ボクから自由になっていいんだぞ」と言う主人の言葉にも抗い傍で死ぬまで彼を見守り続けた男だけしか存在していない。

誰も、何も言わなかった。

何も言う必要は無かったからだ。

3人の間には言葉にならぬ共通の感情が流れていた。それは、言葉など介さなくてもお互いに通じ合う感情だった。

故人の姉と妻。2人の老女は酷く良く似ていた。

この地の喪に服す女性らしく黒いベールを頭から被り、その奥の貌は年老いてはいたが気品と知性に溢れた気高い美しさを感じ取らせた。

ポツリ、と未亡人となった老女が口を開いた。

「正式には・・・私の一族の墓地に葬る予定になっていますが、彼の亡骸は遺言通り火葬にし、その灰はあの場所に埋める事にします」

「そうですか・・・」

既に夫を亡くしている、故人の姉は静かに頷いた。

「彼は・・・ずっとあそこを守り続けていた気がするのです。あの場所を・・・」

故人の妻は独り言のように続ける。

「私も詳しい話は聞いてはいません。でも、あの人達が・・・ずっと彼と共にあった・・・ふふ、時にはその絆の強さに嫉妬してしまう事さえあったけれど・・・彼等がある日突然消えてしまった時から、彼は毎週金曜の夜になるとあの場所に行っていた・・・まるで墓を詣でるように」

死者の姉・イシズは思う。彼等は消えてしまった訳では無い。恐らくその肉体の寿命が・・・何らかの奇跡によってこの場所に止められていた肉体があるべき姿に戻った時、その魂もまたあるべき場所に帰ったのだと。

これは憶測でしかないが・・・遺体を見ていない事、そして彼等の運命を思うと・・・もしかしたらその肉体は砂となってしまったのかも知れないと。

そしてその砂をたった独りで葬ったマリクは、あの日からあの場所を守る様になった。

ルクソール西岸、かつてクル・エルナと呼ばれていた廃墟。そこに彼は一本の木を植えたのだ。まるで自分の失われた故郷を再現するかのように・・・柘榴の木を。

恐らくその根元に彼等は埋まっている。

かつて盗賊王と呼ばれていた男と、かつてこの世界を滅ぼそうとした神の末裔の少年が。

「あの子は・・・最後まで墓守だった・・・。王の墓ではなく、愛する者達の墓を守る・・・」

だが、もうその役目からは解放されたのかも知れない。何故ならもう、彼自身もこの世に居ないのだから。

大往生と言う言葉が相応しい最期だった。まさかこの様な穏やかな死が与えられるとは。その業の深さを思い返すたび、イシズは神の寛容さに涙を流して感謝したい気持ちに襲われた。祈るべき神の名を、イシズはどうしても特定できなかったが。

意味が分からない筈のイシズの言葉に、だが妻・アイシャは頷いた。

「そうかも知れません。私、あの人に聞いた事があるのです。彼の『もう一人の自分』の事を・・・」

イシズはハッとしてアイシャの彫の深い横顔を見詰めた。

「あの人は自分自身こそが彼の墓なのだと言っていました。自分こそが彼が存在していた証だと・・・。彼は今やっと墓を守り続ける使命から解放されたのかも知れませんね・・・」

イシズは黙ってアイシャの皺だらけの手を握った。

この人は、弟の事を本当に愛していたのだと。何の宿命に囚われた訳でも無いのに、マリクを理解し、理解しようとし、傍にいて支え続けてくれていたのだと。

そう感じ、涙が出るほど嬉しかった。

「弟は・・・マリクは幸せでした。貴方のような妻を持てて・・・」

その時、アイシャは何かに気付いた。

庭の木々の間を、何かが横切った気がしたのだ。

小さな・・・まだ子供のような人影。

目を凝らそうとアイシャは僅かに身を乗り出した。

それに気付いたイシズとリシドも庭の方を見る。

木々の間から覗いた髪は月光に照らされて、砂色がかった薄い金に見えた。

その色に、イシズもアイシャもリシドもハッとする。

思わず後ろを振り返った時・・・

亡骸が納められている棺の脇から、ちょこん、と何かが身を乗り出した。

今も田舎では変わらず着られている古代から不変のガラベーヤを着た少年。

その髪の色は、先程庭で見た色と同じだ。

キラキラと紫の目を輝かせるその表情は、まるで遊びに行く約束をしていた友達がやっと迎えに来た様だった。

満面の笑みを浮かべ、少年は思い切り庭へと駆け出した。

リシドの脇を、イシズとアイシャの間を、まるで風のようにするりと通り抜け、少年は庭へと駆けて行った。

そして彼を、もう一人の少年が月明かりに照らされる庭で迎えていた。

その貌も、容も、少年と瓜二つ。

ただそのまるで天へ挑戦するかのように上へと跳ねる髪と、少年よりやや色の濃い紫の瞳だけが違っていた。

もう一人の少年も、嬉しそうに笑った。

まるで迎えに来たよ、と言う様に。

2人は手を取り合って笑った。

そしてそのまま庭の向こう側へと駆けて行き・・・

その時一際強く風が吹いた。

ナイルの遥か上方から流れてくる風。

その風が見せた幻だったのだろうか。

イシズの瞳には、遠く遥かなる地が見えた。

その地には緑溢れ、柘榴の木には実がたわわに実っている。

2人の双子の少年が手を取り合ってそこへと駆けて行くと、それを待っていたように、一人の長身の男が柘榴の実を投げてやる。

もうその表情には殺戮への欲求も深い憎悪も無い。

そしてその傍らには、美しい白い肌の少女が微笑む。いや、少女なのだろうか。だがそれはもう、どちらでも良いのだろう。

彼等は幸せそうだった。

 

そして再び風が吹き、イシズの目の前には夜の庭と物言わぬナイルが横たわっているだけだった。

隣のアイシャをと見ると、その瞳からは涙が止め処なく溢れていた。

それを見て、イシズは自分も泣いている事に初めて気がついた。

「今の、今のは・・・」

声にならない声でアイシャはイシズに問い掛けた。

イシズは黙って頷いた。

後ろで涙など見せた事の無い男がすすり泣いているのが分かる。

最早生まれ変わる事も無い呪われた彼等が逝く地など、「無念の闇」の底でしかない筈だ。

だがそこが、あれほど美しい世界なのだとしたら・・・。

イシズはアイシャと抱き合いながら、この世界に感謝した。

 

天を往く月は遍く大地を照らし、太陽が照らさなかった部分を照らし出した。

たとえ夜の底にあったとしても、光の与えられぬ場所は無いのだと。

そう全ては、光の中に完結する物語なのだから。

 

 

[完]

 

 

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