バースデイ 

 

 

ジジ・・・ジジジ・・・

 

蝋燭の灯りが揺れ、一匹の迷い蛾がその灯に惹かれて炎に寄って来た。

しかしその炎がその薄い羽に燃え移り、一瞬にして小さな蛾は灰になった。

 

どれほどの時間が経ったのだろう。

イシズは冷たい大きな塊が咽につかえた様な息苦しさを押し殺しながら、部屋の中を覗き込もうとし、しかし出来ないで居ると言う事を何度も繰り返していた。

できる事ならこの場から走り去ってしまいたい。

だが、それは出来なかった。

この部屋の中には儀式を行なっている父親とそれを受けている弟しか居ない。

最初からこの部屋に潜んでいたイシズには、入り込むことは容易かったが、途中で抜け出す事は無理に等しかった。

 

声は、止んでいた。

あの耳を塞ぎたくなるような、断末魔を押し込められた悲鳴。

幼い弟の身に起きている事を、イシズはただ黙って蔭から見守るしか出来なかった。

 

儀式の間には近づいてはならないと言われていた。

それでもどうしても気になって。

弟の背負わされた宿命を亡き母に代わって見届けたいと言う思いと同時に、もし自分が男の子だったら受けたであろう苦しみを近くで感じたかったのだ。

それは、その苦しみを受けなくて良かったと言う優越感と、跡取りに為れない女の子として産まれた劣等感を併せ持ったエゴのような感情も含んでいた。

 

しかし、イシズは今自分が此処にきた事を激しく後悔していた。

吐気を覚えるほどに。

 

先程視界に入ってしまった光景は到底消す事は出来ない。

この網膜に焼き付けられてしまった以上、それはイシズの記憶に永遠に刻み付けられるだろう。

全ての幻想を打ち砕く、罪の記として。

 

かたん、と寝台から人が下りる音がして、ばさり、と布が持ち上げられる音がして、イシズは思わず息を呑んだ。

それは静まり返った部屋に思うより大きな音で響いた。

心臓が鋼のように打ち、頭がくらくらしてくる。

 

自分が此処に要る事を知ったら、父は何をするかわからない。

本当に殺されてしまうかもしれない。

それ程厳格な父親だった。

いや、これを『厳格』と呼べるようなものか。

父は半分狂っていた。

地下での長い生活と一族の厳しい掟は全ての者を狂わせていた。

もしかしたら、イシズとて例外ではないのかもしれない。

 

闇は全てを狂わせる。

そうは言っても、先程イシズが目にした光景はこの世の物とは思われなかった。

悪夢だ、そう自分に言い聞かせようとも、眩暈はおさまらない。

常軌を逸した悪魔の行い。許されざる狂気の沙汰だ。

だが、イシズは止められなかった。

誰かに知らせる事も無いだろう。

それは、怖かったからだ。

それを誰が責められよう。

ここでは全てが狂っていた。

そう、全てが。

 

イシズの隠れている柱の陰を父が通り過ぎるのを感じながら、イシズはいっそ死んでしまいたいような恐怖に取り付かれていた。

しかし、父親の気配は何事もなくイシズのすぐ脇を通り過ぎ、部屋を出て行った。

 

後には静寂だけが残された。

 

おそらくマリクの手当てをさせる為にその役目を与えられた一族の人間を呼びに言ったのだろう。

儀式の間は神聖なる場。

その近くにさえ、当主以外は何人たりとも立ち入る事は許されなかった。

当然、イシズがここに潜んでいる事を知られたらただでは済まないだろう。

それでもイシズは見届けてやりたかった。

それが、こんな結果になってしまうとも知らずに・・・。

 

イシズは意を決して柱の蔭からそろりそろりと身を乗り出した。

父が去った今、弟と接触できるのは今しかない。

暗闇の中、蝋燭の灯りで異様に紅く照らされている寝台に、イシズはじりじりと近づいた。

そしてその血の様に不吉な紅の中、更に真っ赤に染め上げられている小さな体を見た。

死人のようにピクリとも動かないそのうつ伏せの体は、どこもかしこも赫く染まっていた。

その余りの異様さはむしろリアリティを削ぎ落とし、プラチナに輝く髪と闇に沈むような褐色の肌がキャンバスのようなコントラストをなしていた。

そこに刻み込まれた絵画。

一寸違わぬ父の背中に彫られた物と同じ刻印。

痛々しさを通り越してむしろ神々しくもあるその傷の中には乾ききらない赫い液体がべっとりと溜まっていた。

 

「マリク・・・」

しばらくそれを呆然と眺めていたイシズは、思わず弟の名前を呟いた。

 

ビクンッ

と跳ねる様に少年は頭を上げた。

プラチナの肩まで伸びた髪が跳ね、こびり付いていた血飛沫がぴっと飛ぶ。

かすかな呻き声が口の端から洩れ、イシズはまだ弟の口に轡が食めたままになっているのを見た。

 

「マリク!?今外してあげるわ、待っていなさい。」

イシズは慌てて囁いた。

 

よく考えればここでマリクの拘束を取ってしまったら、誰かがこの部屋に潜んでいた事がばれてしまうのだが、余りの悲惨さにイシズはそこまで考える余裕を失っていた。

 

細い両腕、両足には太い綱がしっかりと巻きつけてあり、擦れて赤く蚯蚓腫れになっていた。そこには苦痛にもがいた痕が見られ、イシズは思わず顔をしかめた。

綱は固くてなかなか解けない。綱をいじる度に、痛むのだろう、微かな呻き声がイシズの耳に入り、余計に焦ってしまって動きが効率良く行かない。

それに、マリクの体を間近で見れば見るほど『違った暴力』の痕跡が見えてしまい、イシズは再び吐気がしてきた。

父はそれでも隠したつもりなのだろう。血がこびり付いている下半身に巻きつけた布には血以外の液体は巧妙に拭い取られていた。

しかし『行為』その物を見てしまったイシズの目には全てがそうとしか映らない。

自分も苦痛に歯を食いしばるようにして、イシズはやっと両腕と両足の拘束を解く事に成功した。

そして轡をはずそうと、マリクの首筋に触れた瞬間、イシズは凄まじい力によってその腕を取り除かれた。

はっとして目を見開いたイシズの瞳に映ったのは、凶器の様に濡れて光る紫の双眸だった。

 

体を起こしたマリクは、自分で轡を剥ぎ取り床に叩きつけた。

そのまま寝台から下りようとして、体のバランスが上手くとれず、寝台から転げ落ちた。

 

「マリク!?何やってるの?!姉さんが今助けてあげるから・・・」

 

だが、その言葉が耳に入らないかのようにマリクは必死で体を起こして前に進もうとする。

しかし、腰に全く力が入らない。

痛みはもう感じなかった。

 

這いずってまで自力で部屋を出ようとするマリクを、イシズは抱き止めようとした。

だが、彼女が弟の身体に触れた瞬間、マリクは絶叫した。

「いやああああああぁぁ!」

そしてイシズの腕を凄まじい勢いで振り払い、そのまま必死で床に爪を立てて柱に縋って部屋の外へ転がるように逃げ出した。

 

真っ暗な、蝋燭の明かりさえも無い闇の世界へ。

 

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