はぁ・・・はぁ・・・

 

ただ息遣いだけが真っ暗な廊下に響く。

全てがただ暗く、闇しかない空間が四方を取り巻き、幼い少年を圧迫した。

点々と床に付いている筈の血の痕さえも暗闇に飲み込まれてしまっている。

どこまで来たのだろう。

もうマリクには全く分からなかった。

それでもあの部屋にいるよりましだった。

逃げ出したかった。何もかもから。

全ての恐怖と、苦痛と、そして絶望から。

 

よろよろと足を進めて、途中で石か何かにひっかかってマリクは前のめりに倒れた。

もう、動けない。

 

「ふぅ・・・ッ」

 

緊張の糸が緩み、涙腺が解け始める。途端に麻痺していた全身の痛みもぶり返してくる。

 

「うっ・・・う・・・痛い・・・痛いよお・・・」

 

そのままマリクは泣きじゃくり始めた。
背中じゅうが焼け付くように痛い。そして、腰も鉛が入ったよう重く、じくじくと痛む。

 

「ひっく・・・痛い・・・痛い・うっ・・苦しいよお・・な・何で・・・何でボクがこんな目に合わなきゃいけないの・・・?ふうぅ・・・っうえっ・・・」

 

闇がその嘆きさえも吸収するように彼を包み込み、声を上げれば上げるほどその度に痛みが増し、それが逆に涙を加速させる。

 

「痛いよお・・・誰か、誰か助けてぇ・・・苦しいよ・・・痛いよお・・・もおやだ・・・やだあ・・・!うああああああああっ・・・あ・・・あ」

 

それは儀式の最中何度も何度も思った事だった。

だが、誰も助けてはくれなかった。

 

「うぐぅ・・・っなん・・・何・・・で・・・ちち・・・う・え・・・い、痛い・・・もおやめてえ・・・ッ」

 

儀式中、心の中で叫び続け、轡の所為で呻き声にしかならなかった思いが一気に溢れ出てくる。

幼いマリクは自分がされた暴力が理解できない。

背中に刻印を彫るだけが儀礼なのではなかったのか。

では、自分が味わったあの苦痛は・・・?

 

体の中を裂く様に入ってくる異物。今まで味わった事の無い凄まじい痛みに、内臓を引きずり回されるような苦痛。

 

その痛みを思い出し、マリクは身を捩って胃の中の物を吐き出した。

しかし、緊張で数日前から何も食べていないので、胃液しか出てこない。

 

「ウグッ・・・ぐえっ・・・え・・・あ・・・ッがはっ・・・」

 

体内に吐き出された異物を必死で体外へ排出しようと言う最後の足掻きか、嘔吐感は止まらない。

苦しくて涙がぼろぼろ零れる。

 

(嫌だ・・・もう・・・)

 

苦しさで朦朧となりながら、マリクは頭の隅で思った。

 

(もお・・・嫌・・・)

 

どうしたらこの苦しみから抜け出せるか分からない。

幼い頃からこの穴蔵でしか生活を送った事の無いマリクに逃げ場所など思いつかなかった。

 

ずっと愛して貰いたかった実の父親からの暴力に、マリクはたったの10歳にしてこの世の物ならぬ絶望を味わっていた。

自分を産んで死んだ母の愛を知らず、一族の者は彼の父たる当主の怒りを恐れてマリクには近づかない。

その中で自分に一身の愛情を注いでくれた、かに見えた姉イシズと義理の兄のような存在だったリシド。

しかし、そのどちらも助けには来てくれなかった。

 

マリクは勘の鋭い子だった。

愛されたくて、相手が自分の行動をどう思っているのか観察する癖がついた。

特に狂的に癇癪持ちの父の機嫌を伺うのは必死だった。

当主の子として一見不自由なく、我儘に育ったマリクだが、その内情は痛々しいほど必死になって愛情を求めていたのである。

その所為で見たくも無い感情も見えてしまう。

自分が生まれなければ養子として迎え入れられ、当主に実の息子として扱って貰えたはずが、今は使用人と蔑まれている捨て子のリシド。

姉でありながら、女子であるという事だけで弟より格下に扱われ、自分が生まれるまでの間疎まれてきたイシズ。

おそらく本人たちも自覚していない、その2人の中に潜む自分への微かな羨望と妬みに彼は気付いてしまっていた。

しかも、2人が懐いていた、一族の他の者にも人望があった母を死に追いやったのは自分。

そして、父は自分の事を愛してなどいない。

彼が必要としていたのは『ファラオの記憶の刻印』を刻み付ける跡取りとしての『器』。

ただの石版と変わらない、道具。

 

それが、嫌と言うほど分かってしまった。

 

マリクはぼんやりと暗闇の中、思った。

 

(死にたい・・・)

 

それが、この少年に残された最後の逃げ場所だった。

 

(死にたい・・・)

 

いずれファラオに記憶を渡した時、一族の者はその秘密保持の為、一族を絶やさなければならない。

そう、どうせ自分の命など、ファラオに記憶を渡す為の道具でしかない・・・。

だったらいっそ、ここで断ち切ってしまえば、ファラオなんかに記憶を渡す必要も無くなる。

 

「・・っふ・・・う・・・ふふ・・・ふ・・・」

 

その妙案に、マリクは絶望的に笑った。

そうだ・・・それがいい・・・そうすればこの苦しみからも逃げ出せる・・・

 

その瞬間。

 

(まだ、死ぬのは早いじゃないか?)

 

声が、した。

 

「あ・・・っう・・・」

 

マリクは潤んだアメジスト色の瞳を上げ、ぼんやりと暗闇を見詰めた。

しかし、やはり四方を取り巻く闇しか見えない。

気の所為か、と思った時、今度はさっきよりもはっきりと声が聞こえた。

(悪いのはお前じゃない。なのになんでお前が死ななきゃならない?そうだろう?)

 

高い子供の声。聞き覚えのあるような、妙に懐かしい声。

 

「・・・っん?だ・・・れ・・・?どこに・・・いる・・・の・・・?」

 

問いに、声は笑って言う。

 

(ここに・・・お前のすぐ、そばにいるよ・・・)

 

そしての目の前で、暗闇がぐにゃりと歪んだ。

無形の闇が歪み、捩れて融解し、そして形を作った。

 

「・・・?」

 

マリクは目を瞬いた。

目の前に闇から現れたのは、マリクと同じ年頃の一人の少年だった。

 

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