それから1日が経った。
あれから2人は無事保護され、イシズは思った以上のお咎めは受けなかった。
その理由は、おそらくイシズがあの部屋で当主がマリクに何をしていたか見てしまったと、当主たるマリクとイシズの父が考えたからだろう。
イシズの罪を問い詰めればそれが露見するかもしれない。それを恐れた当主はイシズの行いを不問にしたのだ。
当然、イシズも父の罪を誰にも言わなかった。
あの事は無かった事にする、そのような暗黙の了解が生まれた。
そして、マリク自身もその事を忘れてしまったのである。
人はあまりに自分の理解を超える苦痛に出会った時、それを無意識下に葬ってしまうと言う現象を良く起こすという。
特に幼い頃肉親に性的な虐待を受けた者は、幼すぎてその意味が分からない上、愛する肉親からの暴力を容認できず、心の底に封印してしまう事がまま在るという。
しかし、マリクの心に巣食う闇から産みだされたもう一人の闇は消えなかった。
彼はまだ周到に表の人格を乗っ取る機会を窺っていた。
バシャ!
盛大な音がして、召使の一人はそれを避けきる事が出来ず、頭からスープを被った。
「出て行けって言っただろ!食事なんて要らないよ!いいから出てけ!」
「しかし、それではお体が・・・」
なおも言い募る召使にマリクは寝台の上から怒鳴った。
「どうせ父上に叱られるのが恐いんだろう!本当はボクの事なんかちっとも考えていないくせに!!」
「そんな・・・」
弱り果てた召使を庇うように、部屋に一人の男が入ってきた。
背の高いその男はいつもとは違って顔の左半分に包帯を巻きつけていた。
「リシド・・・」
「包帯を替えに参りました。・・・貴方は下がっていて下さい。食事の事は後で私がイシュタール様にご報告致します。」
その言葉に召使はほっとして会釈をし、部屋を出て行った。
むすりと寝台にうつ伏せになったままのマリクの背中に、リシドは手を伸ばそうとする。
「触るな!!」
その途端マリクに腕を払われてリシドはそのまま立ち尽くす。
「痛い・・・痛いよお・・・この苦しみがお前らなんかにわかってたまるか・・・」
部屋中酷い有様だ。
本や家具がぼろぼろになって散乱し、いかにマリクが暴れたのかがうかがえる。
だが、寝台で痛い痛いと泣きじゃくる、まだたったの10歳の少年を見て、誰が彼を責められるだろうか。
この痛みは最低でも一ヶ月は続くだろう。その間彼はこの寝台から一歩も動けず、絶えず熱と痛みに耐えなければならない。
その悲惨さに、リシドは顔をしかめた。すると、自分の顔にも痛みが走る。
だが、その痛みはリシドにとって耐え難いものではなく、むしろマリクと共有する事の出来る唯一の証だった。
「リシド・・・」
マリクは痛み以外の何かを必死で抑えるように、呟いた。
「ボクは・・・誰を・・・憎めばいい・・・教えてくれ・・・」
涙の溜まった大きな紫の瞳をあげ、マリクは問うた。
その瞳にはリシドが映っているはず、だった。しかし、その瞳は別の者を宿していた。
(憎むべきなのは、お前さ、リシド。そして父上様だ。全ての者だ。そうだろう?)
その声に必死で抗うように、それとも肯定を待っているかのように、マリクは憎悪でぎらぎらした瞳をリシドに向けた。
おそらくリシドが誰の名を挙げても、マリクはこの場でリシドを殺しただろう。それほどまでの狂気がその瞳には宿っていた。
そこまで分かっていたのだろうか。いずれにせよ、リシドはその問いに答える代わりに顔に巻いている包帯をするすると外していった。
「マリク様・・・」
リシドは静かに語りかけた。
「私に・・・マリク様のこの苦しみを癒す事はできません・・・ならば・・・せめてこの傷で・・・貴方と・・・貴方の一族に忠誠を誓わせて下さい・・・」
その包帯の中から現れた物にマリクは驚愕した。
それは、顔半分に掘り込まれた刻印の、まだ血も乾ききらぬ傷跡だった。
「リシド・・・!」
その瞬間、リシドに対する殺意は急速な勢いで消えていった。
それと同時に、闇のマリクも表面的な意識層から投げ出された。
しばしの沈黙の後、クク・・・とくぐもった笑いがマリクの唇から零れた。
「それでいい・・・リシド・・・だってお前は・・・ボクが生まれるずっと昔から・・・ボクの影なんだからなぁ!!」
残酷な笑いを浮かべながら、マリクは泣いていた。
泣きながら、笑っていた。
(いいよ・・・たとえお前が本当はボクをどう思っていたって・・・それでもボクは・・・お前を殺せない・・・だって・・・お前は・・・ボクのたった一人の影で・・・兄さん代わりなんだからな・・・!)
(ちっ・・・!!)
一方闇のマリクは歯軋りして悔しがったが、もうどうしようもなかった。
彼は再び闇の中に封印されてしまったのだった。
そこは狭い、狭い心の部屋。
マリクが作り出した心の牢獄だった。
(ふざけるな・・・!せっかく産まれて来れたのに・・・!こんな所に閉じ込められるなんて・・・!クソ・・・ッ!畜生!!)
呪いの言葉はもちろんリシドに向けられる。
それだけではなく、自分の主人格にも。
(オレがいなけりゃ、お前の精神なんて砕け散っちまうってのに・・・!クソ・・・!何でだ・・・!?オレは・・・お前を守ってやりたかっただけなのに!!)
闇マリクは憎悪で気が遠くなりそうになりながら宣告した。
(絶対に・・・オレは消えない・・必ず蘇って・・・全ての者を闇に葬ってやる・・・!待ってろよ・・・!主人格様!!)
そうして闇と言う爆弾を心の奥に閉じ込めたまま、マリクは墓守の一族としての生活に戻った。
この先に更なる悲劇の運命が待ち受けているなど、知る由もなく・・・。
[続]