BLACKOUT

 

 はあっ はあっ はあっ

 

辺りは何も見えない、真の暗闇。

何処へ向かっているのか、そもそも逃げようとしている対象から遠ざかって居るのかさえも分からない、全ての感覚を狂わせる、闇。

 

これこそが自分の最も恐れていたものだった。

全てを喰らい尽くす、夜よりも深い闇。

必死で逃げていたつもりなのに、全く同じ所をぐるぐる回っていただけなのだろうか。

 

「・・・そうだよ。」

 

その、声が自分の耳元で囁かれた事に、少年は弾けるように後ろを振り向いた。

そして、その恐怖に歪む瞳が捉えた物は。

 

「おいおい非道いじゃないか、折角6年ぶりにこうして会えたっていうのに逃げ出すなんて、なあ、主人格様?」

 

「ひっ・・・」

 

声が喉の奥に張り付いて、言葉にならない。

少年はずるずると後ずさりし、その実体化した悪夢から逃れようと体を捩った。

 

「逃げられるとでも思ってるのか・・・?」

 

薄く笑う声。地の底を這うようなその声は、確かに自分と同じものなのに。

 

ガッ

 

走り出そうとしていた少年は突然衝撃とともに後ろに引きずり戻される。

頭が痛い。吐気がする。

 

ギリギリとその長い薄金の髪を鷲掴みにされ、少年の体は僅かに地面から浮き上がった。

そもそもここが地面なのかどうかも分からないが。

「あ・・・うっ」

 

痛みでその紫水晶のような瞳に涙が溜まる。

 

『それ』は、その様子を楽しそうに眺め、彼の体を自分の方へと深く引き寄せた。

難なく自分の手中に納まった彼を見、髪を摑んでいない方の手でその細い腰を抱えた。

もう、二度と自分の腕の中から逃れられないように。

 

「つーかまーえた」

 

本当に、本当に嬉しそうに、『それ』はくつくつと笑う。

そしてそのままぺろりと少年の薄い首筋を舌でなぞる。

 

びくりと自分の獲物が反応するのが楽しくて、『それ』は舌を更に這わせる。

 

小刻みに震える体から渾身の力を振り絞って、少年は『それ』の腕から逃れようともがいた。

だが、もがけばもがくほど『それ』の力は強まって、身動き一つ取れない。

 

更に『それ』は少年の体を捻って、自分の方へと向き直らせた。

『それ』の舌は僅かに震えながら開いている、極度の緊張でかさかさに乾いた少年の唇を濡らし、その奥へとするりと入り込んだ。

 

「ん・・・っ」

乾ききった口内を濡らすように舌は乱暴に奥へと侵入する。

その舌も、その唇も、流れ出る唾液も、一つ一つの白い歯でさえもが、同じ。

全く同じもの。

 

でも。

 

(嫌だ・・・)

 

少年は蕩けそうになる思考に抗い、自分の中を蹂躙しているその熱い舌を噛んだ。

 

びちっ

 

嫌な音がして、少年の体を捕らえていた力が多少弱まる。

そこを逃さず、少年はその呪縛から逃げ出した。

 

よろける様に必死で体を前に運ぶ。

少しでもこの『闇』からのがれようと。

 

「ちっ」

 

『闇』は舌打ちをした。

口の中に鉄錆びた味が広がる。

だが、それすらも彼の狂気じみた欲望を助長するだけだった。

軽く自分の舌を舐め、うっすらと、笑う。

 

「逃がしはしないぜ、主人格様」

 

 

暗闇、それを幼い頃からマリクは恐れていた。

それは、自分が一生を過ごすはずだった、あの昼間でも蝋燭無しでは自分の足下すら見えない暗く、湿った牢獄のような場所を思い起こすからだと思っていた。ずっと。

だが、彼が本当に恐れていたのは別のものだと、こんな今更になって分かった。

 

それは、自らが作り出した『闇』。

自分と同じ顔をした合わせ鏡のような『闇』。

全てを食らい尽くす為だけにこの世に生を受けた呪われし『闇』。

自分の父を殺し、リシドに封印されてからも、ずっと自分の奥底で目覚めの時を待っていた『闇』。

それを、ずっと恐れていたのだと。

 

気が付くのは、遅すぎた。

いや、すでに気が付いていたのかも知れなかった。

だが、認められなかった。

認めてしまったら、彼の『存在理由』は粉々に砕け散ってしまう。

 

『父上を死に追いやったのは、ファラオの魂だ!』

『三枚の神のカードを手に入れれば、ボクがファラオの称号を得る事が出来る!』

『その時こそ、ボクは本当の自由を手に入れることが出来る!』

その思いだけで生きてきたのに。

それが無くなってしまったら、どうやって生きていったらいいか分からなかったから。

薄々気付いていたのかもしれない。

自分の父を死に追いやったのはファラオの魂でも何でもないと。

どこかでずっと知っていたのかもしれなかった。

だからこそ、『親殺しの自責の念で心の牢獄のスミにうずくまっている』男を自分の人形として使おうなどと思ったのではないか。

本当に、親殺しの自責の念を背負っていたのは誰か・・・!

 

「お笑い種だなあ、主人格様・・・」

 

必死で逃げたはずの声が自分のすぐ側から聞こえた事に、マリクは戦慄した。

 

「どこだ!?どこにいるんだ!?」

 

辺りは一面の闇。闇。闇。闇。闇。闇。

闇の中から高笑いが響き渡る。

「あはははははぁぁ、逃げたって無駄だぜ、主人格様。ここはオレの住処なんだ、逃げられるわけ無いだろう?」

怯えたようにマリクは首を四方に巡らす。それでもやはり、闇しか目に入らない。

 

「そうそう、初めっから逃げられるわけが無かったんだよ、哀れな主人格様。

どう足掻いたって貴様はこの闇から逃れられるわけが無かったんだ。自らが作り出した、この永遠の闇の牢獄からなあ!」

 

「やめろ!やめろ!!」

マリクは発狂しそうな恐怖で、耳を両手で塞いで蹲った。

 

「ファラオの魂を葬り去れば自由になれるとでも思ってたんだろ?ククク・・・、何処までも愚かだな、主人格様。

オレが居る限り、お前は自由になるなんて無理だったのさ。なぜなら、このオレを生み出したのは、他ならぬお前だったんだからな!」

 

「やめろ!聞きたくない!お前なんか知らない!」

マリクは絶叫した。

気付きたくなんか無い。自分の愚かさになど。

それはすなわち自らの崩壊と直結しているから。

人間にとって、今まで自分が生きてきた全てを否定されるほど耐えがたいものは無い。

しかもそれが、自分の自我を守る為に偽ってきた真実ならばなおさら。

壊れたくない。

その為には否定しなければならない。

自分の過去を、自分の罪を、自分の闇を、そう、つまりこの『闇』そのものを・・・!

 

バシッ

途端、彼の頬に凄まじい衝撃が走った。

 

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