熱い痛みが頬に走り、気がつくと、彼はうつ伏せに地面に横たわっていた。
「・・・まだオレの存在を無視する気か・・・?」
静かなぶんだけ滲み出るような凶暴さを秘めた声が自分の頭上から降って来る。
マリクは恐る恐る顔を上げた、その見開かれた紫の瞳が自分と全く同じ顔をした『闇』を捉えた次の瞬間、彼は再び凄まじい衝撃を受けた。
思い切り腹を蹴り上げられ、数メートル先まで転がったまま、余りの痛みにマリクは意識が一瞬遠のいた。
再び意識が戻ると、今度は痛みと吐気がぶり返し、彼は体を捩って咳き込んだ。
「ぐっ・・・げほっがはっ・・・」
涙目になりながら吐瀉物を嘔吐し続ける自分の主人格を見下ろし、闇の存在であるもう一人の『マリク』は更に容赦なくその背中を踏み付けた。
一度だけではなく、何回も。その度にマリクの体が跳ねる。
「がっ・・・はっ・・・あっ・・・」
そして『闇』は再びその暗闇の中で淡い光を放つ薄い金色の髪を摑み、持ち上げた。
闇の人格は膝を折り、闇に晒された自分の主人格の美貌を覗き見た。
痛みに歪んだ、恐ろしいほど整った顔の半分は赤く腫れあがり、涙と汗でぐしょぐしょに濡れている。
こめかみが切れ、一本の赤い筋が、滑らかな褐色の肌に落ちていた。
紫水晶のような瞳からは涙がぼたぼたと流れ落ち続けている。
その様子を嘗め回すように見詰め、満足そうに『闇マリク』は笑った。
酷薄で、陰惨な笑みを。
「・・・もう一回思い知らせてやるよ。この『闇』から逃げようとするのが、如何に愚かな行為かって事をな・・・」
そう言うが早いか、闇マリクはマリクの髪を離した。
糸の切れた人形のように、マリクは音も無くその場に崩れ落ちた。
闇マリクは、お気に入りの玩具をようやっと手に入れた無邪気な子供のような笑みを浮かべ、自分の腰のベルトに刺してあった千年ロッドを取り出した。
「これが何か、わかるよな・・・?」
虚ろだったマリクの目に再びさっと光が差した。恐怖の光が。
「あ・・・あ・・・」
紫水晶の大きな瞳を見開き、マリクは地面に這いつくばったまま後ずさりした。
見開かれた大きな眼から雫がぽたりと落ちる。
カチッ
闇マリクはその仕込み刃の鞘を外した。闇の中で、わずかにその刃が煌めいているのは、どこかから光が差し込んでいるからだ。
だが、そんな事に気付く事も出来ないほどマリクは追い詰められていた。
「オレ達の父上様の皮を、生きながらにして剥いだんだよなあ・・・あの時・・・」
追い討ちをかけるような闇の言葉に、マリクはパニックに陥った。
「嫌だ・・・っ」
何処にそんな力が残っていたのかと言う程に、マリクは立ち上がり、再び逃げ出した。
更なる深い闇の奥へ向かって。
人間が恐怖から逃げようとする際、無意識的に光の方を目指してしまうのは生理的に当然の事だ。
ましてや、今のマリクの様に『闇』の恐怖に追い詰められている者は必死で『光』に手を伸ばそうとするだろう。
それが更なる悲劇を招くとしても・・・。
まるで自分の運命と同じ様に、マリクは闇を抜けて蝋燭の灯る薄明るい部屋へと辿り着いた。
「・・・ここは・・・?」
見覚えのある部屋だった。
狭い部屋は逃げ道を絶つように窓も入り口も一つしかなく、四方を取り囲む古びた蝋燭の灯りが、逆に妙に不安を掻き立てる。
部屋の壁や柱には消えかけた古い彫り物の跡が見え、無気味な幻獣達の面影を残している。
淀んだ空気が驚くほど冷たい床を這っていた。
マリクは全身が総毛立つようにして思い出した。
ここは・・・!
逃げようと体を後ろに向けるが、その入り口にはやはり『闇』の姿が逃げ道を塞ぐように立ちはだかっていた。その手に千年ロッドを握ったまま。
「懐かしいだろう・・・?何年ぶりかな・・・5年ぶりだろ・・・?オレが父上様を殺し、お前がファラオの魂を追って地上に出る事を決意した日以来・・・。」
そう言いながら、『闇』のマリクはゆっくりと部屋の中へと入ってくる。
「そう、貴様にとっちゃ久しぶりだろうなあ・・・オレはずっとここに住んでたんだぜ・・・?
貴様がオレを・・・こんな所に閉じ込めたままにしておくからなぁ・・・」
だが、その口調に恨みがましさは、無い。むしろまるで楽しんでいるような響きさえあった。
「会いたかったぜぇ?主人格様・・・この日をどんなに待ちわびた事か・・・暗いこの部屋で、お前の事をずっと見てた・・・ずっと・・・」
ゆっくりと、だが確実に闇マリクはマリクに近づいてくる。
その全く同じはずの、だがマリクよりも暗く濁ったように強烈で残忍な光を放つ紫の瞳はマリクにじっと留め置かれたまま。
瞬き一つしないで、マリクの姿を上から下まで嘗め回すように見つめ、視姦していく。
自然、マリクはまた後ずさりする格好になる。
だが、逃げ道は、もう無かった。
「そう・・・お前があの死に損ないのリシドの腕に抱かれている時も・・・グールズの連中を傅かせて楽しんでいる時も・・・そして、あのバクラって奴とヤってる最中も・・・その宿主に無理強いをしている時も・・・」
そこまで言って、闇はぺろりと舌なめずりをした。
ドン
マリクの背中が壁に当った。
もう・・・逃げられない。
その事に気付き、マリクの喉の奥の方で押し殺された悲鳴が響いた。
「嫌・・・」
その掠れた声に、闇マリクは恍惚と目を細めた。
「いいなあ・・・主人格様・・・もっと怯えてみせてくれよ・・・」
ガッ
そう言うのとほぼ同時に、闇マリクの左腕が伸び、マリクの首を押さえ付け、壁に押し付けた。
ギリギリと締め上げられ、マリクは苦痛で再び涙が競り上がってくる。両腕で自分の首を押さえ付けてる左腕を摑むが、全く歯が立たない。
同じ体をしているはずなのに、こうも力が違うのは、ここが精神世界だからだろう。
そう、ここには『自分』しかいない。他の誰も助けてくれない・・・!
闇マリクは右手に握った千年ロッドの刃をぺろりと舌で舐めた。
そしてそれをマリクの胸へと振り下ろす。