「お帰りなさいませ、マリク様」
男はいつもの様に冷静に言った。
その緑がかった金の瞳からは何の感情も読み取れない。
深い彫りの奥のその双眸がじっとこちらを注視している。
責めるでもなく、咎めるでもなく、ただ、じっと。
「何だ、リシド。」
そしていつもの様に答える。
出来るだけ冷静に、冷徹に、そっけなく。
「また、お出かけになられていたのですか」
「そうだよ。だからどうした?お前には関係ないだろう?」
そう言って、頭からすっぽりと被っていた黒いベールを脱ぎ捨て、男の方へ放り投げる。
その下は、半裸に近い。
しかもあちこちにまだ生々しい『痕』が残っていた。
男は、ベールを受け取り、その無感動な顔を僅かに、そうほんの僅かに顰めた。
マリクにしか分からない程度に。
それを見て、なぜか安堵する。
そう、そんな顔が見たいんだよ。
「ボクは疲れた。もう休む。リシド、早く支度をして来い。」
「は」と男はその長身を折り曲げるようにして深く頭を下げると、そのままベールを持って下がろうとした。
どうしようもなく、イラつく。
「リシド」
「は」
呼び止められた男は律儀にマリクの方に向き直る。
「訊かないのか?ボクが今まで何をしていたのか。」
「それは・・・」
言い澱む男に、マリクは片眉をわざとらしく上げた。
「そうか、訊かなくても分かっているか。そうだよな、お前はボクの影なんだ。
ボクが何処で何をしているかもちゃんとお見通しなんだよな。」
男は困惑したような表情さえ見せない。
表情の無い沈黙に苛立ちは益々募る。
「それともどうでも良いのか。そうだよな、お前はこのグールズの総帥が何をしていようとも関係ないもんな。
何処のどんな男の腕で弄ばれていても、いつもの事だまた始まったとしか思ってないんだろ?」
畳み掛けるように突っかかってくるマリクに、リシドは沈黙を守ったままだ。
マリクはその取り澄ました横っ面を、思い切り張り倒してやりたい衝動に駆られた。
だが、それがこの男にはほとんどダメージを与えない事は分かりきっている。
今まで散々やったからだ。
いつも顔色一つ変えない。
それが癪で堪らない。
それよりはこの男を困らせるもっと有効な手段があった。
マリクは自らベルトを外し、下着も脱いで全裸になった。
ここはホテルの廊下だと言うのに。
幸いこのホテルは今はグールズが借り切っているので部外者にこの様子を見られる心配は無かったが。
そして少し顔を上方に傾けて、不敵に微笑む。
その微笑みは、倣岸な程に美しい。
「抱けよ」
リシドは目を逸らせて静かに答えた。
「服をお召しになって下さい。こんな所で・・・お風邪を召されます。」
「抱けって言ってるだろ。お前が暖めてくれれば風邪なんかひかないさ・・・」
そう甘えるように言うと、マリクはリシドにするりと絡みついた。
猫のようにしなやかな腕が、硬く強張ったリシドの広い背中に縋りつくように回される。
細い脚がその頑健な脚の間に割って入ろうと擦り付く。
甘い、誘惑。
これに大抵の者は逆らえない。
上目遣いの大きな紫の瞳は蟲惑的で、さらさらと揺れる砂色かかった薄いアッシュブロンドがかかる、
リシドよりやや薄い褐色の肌は艶やかになまめいていて、花も盛りの少年の色気を最大限に引き出していた。
ましてやさっきまで行っていた行為の余韻が残っているのだろう。
吐息までもが潤みを含んでいる。
だが、リシドはそれを理性で押さえ込む。
「幾らなんでも此処では出来ません。お部屋にお戻り下さい。」
あくまで頑なに首を振るリシドに、マリクは苛立ったように強引に口付けた。
そのがっしりとした顎を両手で掴み、褐色の唇を抉じ開けて桜色の舌を滑り込ませる。
「ん・・・」
甘い吐息を漏らしたのは、勿論マリクの方で。
リシドは冷静にマリクの舌と唇での愛撫を受けながら、やんわりとそれを退けた。
「マリク様」
その低い声には、穏やかだが有無を言わさぬ力があった。
「・・・。」
マリクは元々大きい目をそれ以上に大きく見開くと、ふ、と顔を逸らした。
「嫌なんだろ」
ぼそ、と呟いたマリクの言葉に、今度はリシドが目を見開いた。
「本当は、ボクとこうするのが嫌なんだろ。」
リシドは返答しかねた。
この関係は元々この若い・・・いや幼い主人の方から強要して始まったものだ。
しかも、この主人がまだたったの12歳の時に。
何回も拒絶するリシドに泣きながらどうしても自分を抱けと命令した幼い主人に抗えず、
その未発達な体を抱いたのがまだつい昨日の事の様だ。
痛々しい行為だった。
それ以来マリクは事あるごとにリシドに体を要求してくるようになった。
リシドは知っている。
それが、マリクが本当に体を求めているのではないと言う事を。
彼はただ逃れたいのだ。
恐怖から。
過去から。
その恐怖から逃れる為だけに体を重ねたがっている事を。
だが、それは間違っている。
なぜなら、その恐怖こそが・・・。
「お前は、ボクの事が嫌いだもんな。」
その言葉にリシドは益々目を見開いた。
と言ってもマリク以外の人間にはその狼狽はほとんど見分けられなかっただろうが。
マリクは自暴自棄のように言葉を紡ぎ続ける。
それはまるで悲痛な叫びのようで。
「ボクは知ってる。お前が本当はずっとボクの事を憎んでいたのを。ボクさえ産まれて来なければ、
イシュタール家の当主として父上に正式に息子として認めてもらえたのに・・・!だからボクが憎いんだろ?!」
吐き出す言葉があまりにも痛々しすぎて、リシドは聞いていられなかった。
「そのような事は・・・」
「嘘つくなよ!!」
マリクはリシドの弁解を遮って叫んだ。
「ボクは知ってるんだよ!お前が一回ボクを殺そうとした事なんかな!
それだけじゃない、いつだってお前はボクをそんな目で見る!
責めるでもない、咎めるでもない、その癖何より冷酷な瞳で!隠すなよ!むかつくんだよ!
いつもそうやって冷静ぶって、内面の本音なんて全部上手くボクに隠し通せてると思ってるんだろ!!
馬鹿にするなよ!ボクの事がずっと疎ましかったくせに!
なんで自分がこんな我侭で自分勝手な主人に、良い様に顎で使われなきゃならないんだって!
本当だったらこの立場は逆になっていたかもしれないのにって!
ボクなんか、産まれて来なきゃ良かったって思ってるくせに!!お前の偽善者面はもう飽き飽きなんだよ!」
一気に叩きつけるようにリシドに言葉を吐き出し、マリクは肩で大きく息をした。
興奮して真っ赤に上気した頬はやはり幼く、アメジスト色の瞳はどこ熱を持ったように潤んでいた。
リシドはそんな主人を宥めるように努めて穏やかに言った。
「・・・確かに、以前にはそのような浅ましい感情が自分の中にあった事は認めます。
しかし、今はそのような感情はありません。今は、ただマリク様にお仕えする事が私の喜びなのです」
「嘘だ」
それでもマリクは承知しない。
その細い体を自ら掻き抱くように両腕で包み、
興奮が収まっていないのかかすかに震えながら駄々っ子のように首を振った。
「もしそれが本当なら、父上との契約、ちゃんと守るんだろうな?」
マリクは意地悪く嗤った。
リシドは一瞬言葉に詰まったが、マリクに刺す様な視線で見つめられ黙って頷くしかなかった。
「クク・・・」
少年はくぐもった笑いを漏らした。
そして可笑しそうに渇いた笑い声をあげた。
それが絶望的な響きを持っているように聞こえたのは、リシドの心の呵責の所為だろうか。
「そうだよな、お前が大事なお父上様との『契約』を違える訳がないものな。きちんと守ってくれよ?リシド。」
あからさまに嘲るような口調で、マリクは猫のように下からリシドの顔を仰ぎ見た。
「ちゃんとボクを、殺してくれよ?」