リシドがマリクの父である先代イシュタール家当主と交わした契約とは、次当主、つまりマリクの殺害だった。

それはマリクが儀礼を受けてから半年が経った頃だった。

その頃イシュタール家当主に仕えていた一族の老婆が一人死んだ。

前年には2人の老人が死に、これでイシュタール家は実質、
元当主とその一人息子であるマリク、その姉のイシズ、そして使用人のリシドだけになってしまった。

永い年月を深き地下の穴の底で暮らしてきたイシュタール家は、当然近親婚を繰り返す事となる。

稀にリシドのように外からの人間が混ざる事もあったが、
外部の人間は正式なイシュタール一族との婚姻は認められず、従って血が穢れる事はない。

特に当主の一族は徹底的な近親婚を繰り返した為、血が極度に濃くなってしまい、
結果生殖能力の低下と死亡率の高揚を招き、徐々にその血筋は衰退していった。

それはなかなか子供に恵まれず、高齢出産の為命を落としてしまったマリクとイシズの母親にも当てはまる。

実際マリクの両親は実の兄妹だった。

もしこのままマリクが最後の当主とならなかったのならば、
マリクは実姉イシズとの間に子供を儲けらければならなくなっていたのだ。

だが、その心配は無かった。

ファラオの魂がこの時代にやっと蘇る事がわかっていたから。

墓守の一族がその秘密を守る為だけに、3千年もの永い永い気の遠くなるような年月をこの地下で費やしてきた、
ファラオの魂が。

墓守の一族に伝わる予言書の中にこう記されている。

紫の瞳を持つ当主が産まれたら、彼こそがファラオに背中の刻印の秘密を渡し、墓守の一族の使命を全うする者だと。

前当主の妻がその命と引き換えに産んだ男児の瞳は、吸い込まれるように透明で鮮やかな紫水晶だった。

だから、マリクは初めから『最後の』当主だったのだ。

 

『一族の掟』。

ファラオの記憶の秘密を守ると言う使命の為に、墓守の一族が犠牲にしなければならないのは何も生活だけではない。

一体いつ作られたのかさえ定かではない『墓守の掟』にはこんな条項がある。

ファラオに記憶を渡した後、墓守の一族はその秘密を永遠に闇に葬らなければならない。

それはつまり、一族の根絶やしだった。

『ファラオに記憶を渡す』と言う使命を全うした一族はもう不要の物なのだ。

不要になった物は始末しなければならない。

下手に残しておいたら、どこでファラオの記憶が漏れるか分からないからだ。

勿論当主はその最たる者だ。

当主はその遺体も残しては置けない。

そもそも死体を単なる屍骸ではなく、いつか復活する時の為の魂の器と考える古代エジプト人にとって、
死体を損傷させると言う事は二度と復活が望めなくなる、
つまり、『完全なる死』を宣告されてしまうと言う最悪の状況なのだった。

この考え方は今日でもキリスト教やイスラム教などの一神教に形を変えて伝わっているが、それは余談である。

兎に角墓守の一族の当主は皆、死ぬと火葬にされる。

それは古代エジプト人にとっては屈辱かつ業罰のような物だった。

 

それをやれ、と前当主たるマリクの父はリシドに命じたのだった。

「所詮お前は一族の者ではない!そんなにイシュタール家に忠誠を誓いたいならお前にうってつけの役目がある。」

リシドがマリクに対し使用人の域を出すぎた接し方をしている、と前当主がリシドを怒鳴りつけた時にこう言ったのだ。

「マリクはファラオに記憶を渡す役目を背負った大事な墓守の一族の当主だ。
だがその役目が終わったら自ら命を絶たねばならん。だがあの腰抜けはそんな事が自分で出来るはずも無い。

貴様、本当にイシュタール家の事を思うのならば、マリクを殺せ!全てが終わった後、マリクを殺して火にくべるのだ!
髪の毛一本残さぬよう燃やし尽くせ!分かったな!」

リシドは前当主に『否』とは言えなかった。

当主の命令が、彼にとって何を差し置いても一番の大前提だったからだ。

彼の生殺与奪件も、また彼の精神的拠り所も、全て前当主であるマリクの父によって握られていた。

捨て子であったリシドにとって、自分のアイデンティティはイシュタール家の一員であると言う事しかなかった。

それが彼の世界の全てだったのである。

 

実際子供の居なかった前当主の妻、つまりマリクの実母はリシドを実の息子のように可愛がってくれた。

それが、彼にとって一番幸せな時代だった。

当主は全く自分に関心を示さず、父とも決して呼ばせなかったが、その代わりの愛情を全てイシュタール夫人が注いでくれた。

当主の妹でもある彼女は、ある日幼いリシドにこう語った事もある。

「あの人はね、昔はここまで頑なではなかったのですよ。でもこの地下の生活が彼をどんどん荒ませて行って・・・。
昔はここも大勢の人間が居て、イシュタール家の当主だと言うだけで敬われ、かなり良い目も見られたでしょう。

でも今はこうやってどんどん尻すぼみに人が減っていくばかり。
他のイシュタールの分家の人々も皆子供も無く年老いるばかりで、此処には何の華やぎも楽しみも無い。
ただ絶望に向かってのみ生きるような生活なのです。

特にもう最近では使用人達も年老いて『外』へ行く事もだんだん難しくなって、
以前だったら当主の直系が『外』へ出る事なんて絶対に許されなかったのに、
私のような者も『外』に出る事もやむを得ずあるでしょう?彼は耐えられないのです。

自分だけが永遠に太陽の光を見る事さえ出来ない、この井戸の底から青ざめた月を仰ぎ見るだけ・・・。
昔は特権だったはずの『当主』の座がいまや大きな枷となっているのです。
それに、彼の父も、つまり私の父でもあるのですけれど、彼もとても厳格な方で・・・」

まるで連鎖のようだ、と夫人は寂しそうに言った。

彼女も、実の兄と結婚しなければならなかった時どんな気持ちだっただろう。

なんと言う悲惨な運命を持った一族なのだ。

だが、リシドはこのような一族に拾われた事を決して悔やんだりしなかった。

むしろ誇りに思った。

自分が当主となった暁にはこの年老いた優しい夫人を心から安らかにして差し上げたい、そう願った。

彼は、イシュタール夫人を、いや、『母』を心から愛していた。

 

第一の波紋は長女イシズが産まれた時だった。

リシドは表面上は喜んでいたものの、本当は怖かった。

『母』の愛情が実子に行ってしまうのではないかと。

ましてや、男児だったら自分がイシュタール家の本当の息子になれる機会は永遠に失われてしまう。

リシドにとっては幸いな事に、産まれたのは女児だった。

イシュタール夫妻の落胆振りは大きかったが。

特に父である前当主は、女であると言う事でイシズには全く関心を示さなかった。

それどころか疎ましげな目で見る事さえあった。

しかしイシュタール夫人はイシズとリシドを何の分け隔ても無く愛し、慈しんでくれた。

イシズとリシドはお互いに夫人の愛に包まれ、また当主の冷たい仕打ちを共有する事で、
当主の娘と使用人と言う身分の差さえあるものの、それ以外では比較的穏やかな日々を送った。

夫人が第二子、つまりマリクを産むまでは。

 

難産だった。

赤ん坊が胎内から投げ出された時、もうすでに母体は虫の息だった。

しかし、夫である当主はそんな妻の方には見向きもせず、生まれた赤ん坊の性別を確かめた。

男であった。

イシュタール夫人は息も絶え絶えにリシドとイシズに産まれて来た赤ん坊の事を頼み、息を引き取った。

彼女は最後にリシドにこう言った。

「弟を、頼みますよ・・・。」

それは一種の呪縛のような物だった。

優しかった『母』に託された、との思いがリシドの憎悪を封じ込めた。

それはイシズにとっても同じ事だった。

2人は唯一の理解者を失い、そして新たなる苦悩の中に放り込まれる事になったのだ。

一族の家事を取り締まっていたイシュタール夫人が居なくなると、事態は一気に2人の背に押しかかった。

それは『育児』と言う物をしなければならないと言う事実も彼等に突きつけた。

勿論当主がそんな事をするはずも無かった。

彼は初めこそ男児の誕生を喜んだが、それはあくまで『跡取』が出来た事を喜ぶだけであって、
自分の子供だと言う認識すらあったのかどうか怪しい。

今となっては恐ろしい仮説だが、
前当主は自分と同じ『枷』を与えられる自分の身代わりを見出して嬉しかっただけなのではないかとすら思える。

その後の彼の行動からするとそれは否定できないだろう。

それはひとまずとして、流石に当主も生まれたばかりの赤ん坊に手を出すなどと言う事は無く、
マリクと名付けられた小さな赤ん坊の世話は、リシドと他の数人のイシュタール家の老人と、
更にはまだ当時4歳のイシズがする事になった。

だが流石に4歳の少女に育児は難しく、専らリシドが面倒を見る事になった。

今に負けず劣らず手間のかかる子だった。

まず胃腸が弱く、食事をなかなか受け付けずにすぐに戻してしまう。

泣き出すと泣き止まない。

夜泣きも酷い。

リシドは産まれて初めての『育児』などと言う物に悪戦苦闘しながら、何度も『どうして自分が』と思ってしまった。

どうしてあの優しかったイシュタール夫人の命を奪って生まれてきた、
そして自分の人生をも奪い、これからも奪い続けるだろうと言う子供を自らの手で育てなければいけないのか。

1人で涙した日も数知れない。

だがそれでも彼を支えたのは『母』の最後の言葉と、同じ感情を共有しているイシズの存在と、
そして何より自分に一心に懐くマリクの姿だったのだ。

無邪気に微笑むマリクは、まだ幼いながら本当に可愛らしかった。

イシズもこの歳にしてかなりの美貌の持ち主だったが、マリクの可愛らしさはまた格別だった。

多少の我侭も許してしまうような、そんな笑顔を向ける子供だった。

そう、おしめも換えて世話をした『弟』と肉体関係を結んでいる今の状況は、やはりリシドには耐えがたかった。

 

母を知らず、ある意味で父の愛情も知らないが、彼はリシドと姉・イシズの愛を一心に受けて育った。

彼等の心の奥にある嫉妬と憎悪には気づかずに。

いや、本当に気付いていなかったのだろうか?

それはそう思いたくない自分の欺瞞だ、と今となってはリシドは思う。

マリクは意外に察しの良い子供だった。

だが、彼自身その事を『気付かない振り』をし続けていた面もあった。

その事を認めたら、彼は拠り所を全て無くしてしまうから。

そう言う意味では、リシドと良く似ていた。

マリクは成長すると同時に、徐々に我侭な性格が目立つようになった。

わざと無茶な事をしてリシドやイシズを心配させたり、『外』の世界の事を無闇に知りたがって困らせたり・・・。

その裏にはリシドとイシズへの歪んだ愛情確認、と言う物があったのではないか。

と、やはり今となっては思う。

こんな事をしても自分を嫌わないで居てくれる?自分の為だったらこんな事をしてくれる?それを問う為だけに。

そこまでしなければ不安だったマリクが2人の本心に気付いていなかったはずは無い。

怖かったのだ。

見捨てられるのが。

リシドが、当主に捨てられるのが怖かったように。

 

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