「了ちゃん?了ちゃんなの?」

潤んだ声は老いて掠れていたが、聞き間違えようも無かった。

獏良は激しく動揺した。

どうして、何故ここに・・・

夕日の最後の光の向こう側から、自分に良く似た女性が駆け寄ってくる。

驚いた事に、あの黒々と美しかった髪が自分と同じに白く染まっているではないか。

そうして見ると、まるで鏡に映したように彼女は自分に似ていた。

それは懐かしい、既に追憶の記憶の中でしか存在していなかった母の姿だった。

後ろにいる初老の紳士は父だ。彼もまた老け込んでいた。まだ50も半ばだと言うのに、その髪には白い物が混じり、血色の悪い顔には深い皺が刻まれていた。

獏良は動揺の余り一歩後ろに後退った。

だがそれが、息子の拒絶に思えたのだろう。母は途中まで駆け寄り、足を止め、その場に立ち尽くした。

「了ちゃん・・・」

その後は言葉にならないらしい。

そのまま泣き崩れるように膝を折った妻を支えようと、獏良財閥の婿養子となり今は早期退職して趣味の考古学と妻を支える事に専念している、獏良の父が駆け寄る。

妻の言葉を引き継ぐように、父は抑え切れぬ感情を出来るだけ抑えようと努力しながら、長年離れ離れになっていた息子に語りかけた。

「了・・・私達を、許して欲しい」

獏良は思いもかけない言葉に益々狼狽した。そしてまた一歩後退る。

「了、どうか聞いて欲しい。逃げないで、聞いて欲しい」

父は必死で息子に語りかけた。

「本当に、すまなく思っている。ずっとお前を苦しめ・・・独りぼっちで置き去りにしてきた事を。お前の孤独を見て見ぬ振りをし、親としての責務を放棄してきた私達を許す事など出来ないだろう。だがこれだけは信じてくれ。私達は決してお前を愛していなかった訳では無い」

獏良は動揺しつつも、一瞬何を今更・・・と言う思いが脳裏を過ぎるのを感じた。だが、この歳よりも更に老け込んだ老夫婦を目の前にして、何が言えるだろう?むしろ謝るべきは自分の方なのに・・・と思いながら獏良は声も出せずにいた。

「私は・・・どうして良いか分からなかった。いや、母さんだって同じだ。天音が死んだ時、私達はどうしたら良いか分からなかった。その混乱を・・・全てお前に押し付けてしまった。私達は天音の死をどうしても受け入れられず・・・そして母さんは現実を受け入れられない余り妄想の世界へ逃げ込んでしまった。お前が・・・妹を・・・そんな馬鹿げた事を・・・」

夫の腕の中で弱々しい妻は泣きじゃくっているばかりだ。

そんな母親を獏良は哀しい思いで見つめた。

「私とてそんな馬鹿なと思わなかった訳では無い。だが、私は疲れていた。何もかもに。獏良財閥の婿養子としての重圧。妻の病状の悪化。そして娘の死。私は全てから逃げたのだ。それがどんなにお前を苦しめるか、分からなかった訳も無いのに・・・!」

悔恨の思いで父は唇を深く噛んだ。だが、悔やんでも過ぎてしまった月日は取り戻せない。

「お前が私達の目の前から消えてしまった時、私は自分のして来た事の愚かさにようやく気がついたのだ。苦しんでいるお前を支えてやる事もせずに、金だけを与えて放り出して・・・。見捨てられて当然だ、私達は親として失格だ。そう思った。だが・・・」

父は妻を支えながら立ち上がり、息子を真っ直ぐに見詰めた。嘘偽りの無い瞳で。

「心配で堪らなかった。お前が・・・何処でどうやって暮らしているのかも分からない。幸せに暮らしているのかも分からない。たまに届く手紙には確かにお前が幸福に過ごしているのだと綴られていた。それがどんなに私達に希望を与えたか。だが、やはりお前をこの目で見なければ・・・」

父はゆっくりと息子に歩み寄った。今度は、獏良も後退らなかった。

「・・・元気そうで良かった。顔色も良いようだし・・・。良かった。本当に、良かった」

既に父の瞳からは涙が溢れている。

獏良はただそれをジッと見ていた。

「ゴメンなさい・・・」

その時消え入りそうなか細い声が、陽の落ちた薄闇の忍び寄る路地に響いた。

「母さん・・・」

獏良のまたか細い声に反応するかのように、夫に支えられて辛うじて立っていた獏良の母は、息子の方に目を上げた。

「ゴメンなさい、ゴメンなさい了ちゃん・・・。私が、ママが・・・天音ちゃんを殺したの」

思いもかけない言葉に、獏良だけでなく夫も動揺したようだった。

「な、何を言い出すんだ母さん!」

上擦った声で語りかける夫の方を見ようともせず、母はただ息子に頭を下げた。

「あの時ママが目を離していなければ・・・。ママがあの時貴方達だけにしなければ・・・天音ちゃんは事故に遭わずに済んだ。だけど、ママはそれを受け入れられずに、了ちゃんの所為にしたの・・・。ママは・・・確かに貴方にどう接して良いか分からなかった・・・。人の心まで読んでしまっているかのような貴方を恐れていた部分もあります。でも・・・そこから逃げたのはママの所為なの。私は母親失格だわ・・・。自分の産んだ子供なのに・・・あんなに、愛していたはずなのに・・・」

母の口からこうもはっきりとした自分への認識を語られた事など無かった獏良は、やはりどうして良いか分からずに立ち尽くした。

「だからママを恨むのは当然よ。でもお願い・・・」

息子と同じく何処か危うい脆さを持った母は、ただ懇願するように息子に語りかけた。

「お願いだから、自分を大事にして。ママ達と一緒にいなくても良いわ。でも、何処でも良いから、幸せに暮らして。お願いよ。自分を傷付けるようなまねだけはしないで。危険な事だけはしないで。貴方まで死んでしまうかと思うと私は・・・!ママは、ママ達はね。貴方を本当に、本当に愛しているのよ」

それだけをやっと言ったというように搾り出すと、獏良の母は力尽きたように膝を折った。

父が慌てて体を支える。

元々体も・・・心も丈夫でない母親にここまで心労を負わせてしまったとは・・・。獏良の胸に苦い痛みが走った。彼は静かに首を振った。

「ううん・・・謝らなければならないはこっちの方だよ。ボクが母さんを・・・そして父さんも苦しめてた。だからボクが居なくなれば2人が楽になるかと思っていたけど・・・それは違っていたんだね。ゴメンね」

獏良は微笑んだ。だがその微笑みは・・・。

以前とは違う、と父も母も思った。

その微笑みは、以前の誰も傷付けまいとする、家族や友人関係の中で必死で作り上げた「色の無い笑み」では無い。

この微笑みは、あの消え入りそうな儚げな空虚な笑みでは無い。

もっと力強く・・・確固たる笑み。

「でも大丈夫、心配しないで、母さん、父さん。ボクはもう大丈夫。今ボクはね。とっても幸せなんだ」

獏良の両親は思わず息子の晴れ晴れとした顔を見た。

もう完全に日が落ち、辺りは暗くなりつつあったが、何故かその暗闇の中から、息子の姿は浮かび上がるように白く見えた。

「ボクは今ね、エジプトで恋人と暮らしています。色々事情があって結婚とかは出来ないし、多分母さん父さんに紹介する事もできません。でも、悪い人じゃ・・・ないし、ボクの事とっても大事にしてくれる。ボクの事真剣に愛してくれます。そしてボクも・・・」

そう言って獏良ははにかむ様に僅かに俯いた。

「だから心配しないで。ボクは今とっても幸せ。母さんや父さんと一緒に暮らす事は・・・多分出来ない。だけどたまに日本に帰って来るから。だからどうかそんなに自分達を責めないで下さい」

そう言って獏良は、ぺこりと頭を下げた。

静寂が流れた。だがそれは、嫌な物ではなかった。

やっと訪れた穏やかな空気が、3人の家族の間に流れていた。

「それを聞いて安心した・・・。了、お前が決めた事なら私達は何も言わない。お前の望むように生きてくれ」

父は穏やかな表情で息子に告げた。母も無言で頷いている。

「ありがとう、父さん、母さん・・・。本当に、今まで・・・」

ごめんなさい、と言おうとして獏良はやめた。

お互いに謝罪の言葉しか出てこないなど悲し過ぎる。家族だと言うのに。

「ありがとう」

その言葉に、獏良の両親は驚いたように息子の顔を見詰めた。

「ボクも、父さんと母さんの幸せを願っています。そしてボクも・・・父さんと母さんの事を深く愛しています」

その言葉を言い終わるか終わらないかの内に、獏良は深く抱き締められていた。

懐かしい、最早記憶の底に眠っていた本当に幼い日にしか知らなかった母の温もり。

獏良は瞳から一筋涙が零れるのを感じていた。

この温もりを、消さないで良かった。世界を、消さないで良かった。

獏良はそう思っていた。

 

両親の後ろ姿が見えなくなると、路地は一気に暗くなった。

夕日が完全に沈み、教会に面したこの住宅街の外れの路地は人気も少なく電灯も薄暗い。

その暗がりの中から、獏良は突然背後から抱き締められた。

「ひゃっ!」

悲鳴を上げた子羊に、狼は笑う。

「ちゃんと言えたじゃねーか。感動の家族の再会って奴だな。泣けてくるぜ」

茶化すバクラに、獏良は憮然として振り返る。

「・・・どうして君、ボクの両親がここに来る事知ってたの?」

「しらねーよ」

「嘘吐き」

しらばっくれるバクラに、獏良は鋭い視線を送る。

「ボクを騙せると思うの?もしかして君・・・」

「その通り!このオレ様がこっそり電話しといたのさテメェの両親に。クラスメイトの結婚式には息子は出席するってさ」

「どーして父さんちの電話番号、君知ってるの?」

「このオレ様の情報網を舐めて貰っちゃ困るぜ?仮にも今や世界的貿易会社『セベク』の陰の副社長なんだからな!」

「それって個人情報保護の観点から普通に犯罪じゃない?それ以前に不審電話過ぎるよ。どーしてそーゆーことするかなー」

獏良は頬を膨らませる。

「ホントにテメェはオレ様が居なきゃ何にも出来やしねぇんだからな。全く宿主じゃなくなっても世話の焼ける奴だなホントに・・・」

「それどーゆー意味?」

益々ムッとする獏良に、バクラの表情から僅かにおどけた調子が抜けた。

「お前、何で折角日本に帰ってきたのに両親に会わずに帰るつもりだったんだよ」

バクラに突っ込まれて、獏良は言葉に詰まった。

「だって・・・」

「今の内に会っとかねぇと、それこそどっちかが死んでからじゃ遅ぇぞ?死んでからじゃ、何も出来ねぇんだからな・・・」

「あ・・・」

獏良は恋人の家族の事を思って胸が疼いた。一夜にして奪われた温もり。

良く考えれば自分は何と不謹慎な事を言っていたのだろう。記憶が完全には戻っていなかったとは言え、「死にたくなかったのに死ななければならなかった」数多の魂の怨念を背負って戦い、死後も安寧を得られる事なく自らもまた怨霊となった存在に向かって、「妹の代わりに自分が死ねば良かった」などと軽々と・・・

それ所では無い。そんな彼に自分を殺すように頼んでいたのだ。

今思えば身勝手極まりない事を・・・

「オイオイ怒ってんのか?」

獏良が何も言わないので、バクラは仕方なく獏良を腕から離す。

獏良はやはり何も言わずに、もうすっかり暗くなった人影の無い道をすたすた歩き出した。

「ったく・・・人が折角・・・」

ブツブツ言いながら後を付いていくバクラに、不意に獏良は振り返った。

「怒ってなんかいないよ。・・・ありがとうバクラ」

にっこり、と微笑むと獏良は嬉しそうにクルッとターンを描いて一回転した。

そしてそのまま抱きつく。

「本当は・・・両親に宛てて手紙を書いてたんだけど・・・直接会おうとしなかったのはやっぱり逃げだったんだよね・・・。・・・君は何処までもボクの甘さを打ち砕くよね」

そう言って獏良は笑う。

「でもそれが・・・いつでもボクを前へ歩かせてくれる・・・。生きる力を与えてくれる・・・。ありがとう、バクラ・・・」

軽くその唇に口付けると、再び夜を舞う蝶のように軽やかに獏良は恋人から離れてクルクル回った。

「・・・酔っ払ってんじゃねーの?」

苦笑しながらもバクラは思う。

お前、分かってねぇな。

オレを・・・『死んでいた』オレを『生き返らせてくれたのは』お前なんだぜ?

それは何も物理的な意味じゃなく・・・

 

暗い路地を歩く2人を、半分に欠けた月が優しく見守っていた。

その白い光は2人だけに、世界でたった2人だけの為に、優しく降り注いでいるかのようだった。

 

 

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