「これにて会議は終了致します」
流暢な英語と共に会議の終了が宣言された。
今やNYに置かれた海馬コーポレーション本部最上階の会議室の円卓を囲んでいた一同に、一様に安堵の溜息が漏れる。ひとまず会議は成功と言えよう。
張り詰めたような緊張の糸が切れ、企業戦士達は各々離席を始めている。
その中で、最後まで動かなかった2つの陰がある。
今回の主役とも言うべき2人の人物。
今や世界的大企業となったアミューズメント会社・海馬コーポレーション取締役社長、海馬瀬人と、まだ新興ながら急速な成長力によって次々と新事業に乗り出している貿易会社・セベクの若き社長、マリク・イシュタールだ。
しかし10代も半ばで養父の興した会社の代表となった海馬瀬人には、もう20年近くのキャリアがある。マリクもグールズ時代のノウハウを活かして大学在学中に企業を興してから、10年以上の月日が流れている。若いと言っても、2人ともそれ相応のキャリアを積んだ企業トップであった。
ダークグレーのスーツに身を包んだ海馬は、かつて敵同士だった男を見た。
相変らずの端整な貌は童顔にも見られがちである事を気にし、マリクは長かった砂色がかったアッシュブロンドの髪を短く切り、後ろに撫で付けている。だが、それが彼の貌の美しさを際だだせても居た。
相応の自信と経験を積んだ姿は、以前の不安定さをも想起させる倣岸さとは違った落ち着きを身につけているように感じられた。
だが、それは海馬の方も同じだったのだが。
マリクは秘書を務めているリシドを手で制し、2人きりにしろと黙して命じた。リシドと共に、海馬コーポレーション副社長も黙って礼をして去る。それはもはや弟・海馬モクバでは無い。今モクバは別会社を興し、海馬コーポレーションとは独立している。それは兄である海馬自身の意図だった。弟をいつまでも自分の腰巾着としているのは、弟の為にならないと言う判断だった。
その代わりに副社長に就いているのは・・・
「姉に挨拶をしていかなくて良いのか」
ビジネスマンの仮面を剥ぎ捨て、横柄に言い放ったかつての知り合いに、マリクは苦笑した。既に大企業最高責任者としての肩書きも不釣合いでは無い歳になり、年相応の貫禄や落ち着きを感じさせるようになった物の、やはりこの男は変わらない。
「・・・姉とは後で会う約束をしている。それに今は、彼女は海馬コーポレーション副社長兼社長夫人だ。そう軽々と会って良い相手じゃないだろう?」
語尾に僅かな毒を潜ませて、マリクは手強い交渉相手だった相手に笑いかける。
「しかしまさか貴様とこう言う形で再会するとは思わなかったな。まさか貴様が貿易会社を興し、我が社との業務提携を持ちかけてくるとは。犯罪組織の総帥だった男が、しかしまた随分な変わり様だな」
「姉さんとの結婚式以来だっけ?姉さんとは上手くやっているの?」
今回提携する事で合意した業務内容の資料を見ながら嫌味を言う男の言葉は無視し、マリクはわざと砕けた口調で混ぜっ返した。
海馬はやや憮然とした表情になる。
もう妻に迎えて3年は経とうとしているのだ。そろそろ妙に恥ずかしがるのはやめれば良いのだが。2人の長年の交際どころか前世からの因縁すら知っているマリクは、半ば呆れるような気分で海馬を見た。勿論その心情には嫉妬も交じっているのだが。
「・・・貴様も先月籍を入れたそうだな。相手は年上のエジプト人の女だと?貴様もつくづく姉離れの出来ない弟だな」
今度はマリクがムッとする番だった。この男は勿論仕事を理由に義弟の結婚式にも出なかった。まあその方がマリクとしては良かったのだが。
「別に姉さんとは関係ないじゃないか。アイシャとはカイロ大時代からの付き合いだ」
「それはまた長い交際期間だな」
「お前に言われたくないね」
その結婚に際してはかなりの苦渋の決断だった2人とも、互いの心情をまるで分からない訳でもないゆえに、逆に意固地になって言葉の応酬を重ねる。イシズが内心思っているように、実際この2人は意外に似た者同士なのかもしれない。
海馬はイシズとの結婚を躊躇っていた節がある。それには様々な事情があるのだろうが、恐らく本人に家庭を持つ事への恐怖があったのではないかと思われる。
幼い頃に両親を亡くし、弟と2人きりで生きてきた彼が知っている「家族」と言うのは、あの愛も無い海馬家の地獄の日々だけだ。
そしてマリクも・・・。
自分達が幸福な家庭を築けるとは思えない。その迷いが、2人を結婚へと踏み切らせずにいた。
更にマリクには、姉の政府への圧力で国籍こそ取れたものの、そもそも結婚の基盤となる「家」や過去そのものを隠蔽しなければならない問題、相手の家族の反対など、幾多の問題が立ち塞がり、既に交際から10年近くの月日が過ぎてしまっていた。
何とか恋人の家族の信頼も勝ち得、軌道に乗った会社の運営を共に進めて行く共同作業の中でも、マリクはどうしても、どうしてもただ一つ踏み切れなかった理由が・・・
「だがまぁ、お互いこう言う立場上なかなか難しい物ではあるが。ましてや貴様は色々と問題も多い事だろうしな」
マリクは一瞬海馬の言葉の意図が分からずにポカンとした。その言葉に悪意や毒がまるで含まれていなかったからだ。
まさか遠まわしにでも、相手の立場を気遣うような言葉をあの海馬がかけるとは思っても見なかったからだ。しかも「お互い」などと自分の立場と他人の立場を一緒にする事自体が、海馬が言う言葉とは思えなかった。
だがこの2組の結婚が難航したのはもう一つ共通の理由がある。
「血を絶やす」と言うイシュタール家へ掛けられた呪いは周到だったようだ。
イシズにもマリクにも子を残す能力がない。
海馬はそれを受け入れイシズと結婚したのだろう。実際イシズから海馬が「オレには子供など要らん。丁度良いくらいだ」と言っていたと聞いた。
だが、マリクの方は事情が違う。子を産む事への期待が根強いエジプト社会出身の妻にかける負担を思い、マリクは結婚を躊躇っていた。しかし彼女はそれを受け入れてくれた。
これほどまでの彼女の好意に、答えるべきだとは分かっていた。確かに彼女を愛して居る。だが・・・
黙りこくったマリクにまるで気がつかないように、海馬は資料を捲りながらマリクに尋ねた。
「そう言えば、相変らず貴様の会社の副社長は表には出てこんな」
一気に現実に引き戻されて、マリクはギクリとした。
会議中も幾度となく突っ込まれ、何とか切り抜けたが。ここでもまた言うか。
「裏で表沙汰には出来ない仕事を請け負っているなどと色々口さがない噂も聞こえてくるぞ?企業のイメージダウンも少しは考えたらどうだ?確かに貴様のやっている事だ、法に触れているか触れていないかは問えないがな」
「・・・今ボクは法に触れるような事は一切やっていない。お前みたいに法の網の目を掻い潜るようなやり方すらしないようにしているつもりさ」
勤めて冷静に言い返しながらも、ここに連れて来たら余計に厄介な事になるんだよ!とマリクは内心毒づいた。
最早今や隠す必要も無いだろう。彼は本当に良くやってくれている。
はっきり言って彼がいなければセベクがここまで成長する事は無かっただろう。
あの交渉能力と情報収集能力には舌を巻く。
流石、かつて「盗賊王」と異名を持っていた男だ。
顔の傷といいあの性格といい、余りこう言う公式な会議に出させた事も無かったし、本人も嫌がって出なかったのだが、最近では公の場にも顔を見せるようにしている。会議でも歯に衣着せぬ物言いは逆に相手に好意を持たれたり、こちらの強力な切り札になってくれる貴重な存在になりつつある。
それでも「この」会議に出席しなかったのは他でも無い。この男が居るからだ。
記憶が失われているのは分かっている。だが、もし、万が一・・・
「フン」
海馬は鼻を鳴らした。
「噂によるとかなりの切れ者らしいじゃないか。このオレも実際に会ってみたかったのだがな」
資料を机の上に放り投げると、海馬は席を立ち、窓に向かって立った。
眼下には広がるNYの街並みが見える。
マリクも席を立った。
今回交渉は上手く行った。それだけでもかなりの前進だ。
ようやく内戦が終わった最貧国への玩具の低価格での供与。まるでNGOのやるような事を貿易会社がやると言う事業。
とても元・犯罪組織の総帥が持ちかけた話でも無いし、それを受けるアミューズメント会社社長もとても善人とは思えない。ましてや持ちかけた会社の副社長は元々世界を滅ぼそうとしていた盗賊だ。
それでもこの話が良い方向で纏まりそうなのは良い事だ。海馬もあの「貧しい子供達に無償で遊園地を」と言うおもちゃ箱のような夢を現実にしようとしているし、自分も罪滅ぼしの方向をようやく見つけた気がする。
武器や麻薬の売買ではなく、玩具や教育、日常用品の供与を。周囲のライバル会社がその国にもたらし続けた物は前者のみだ。それを食い止める為にも、セベクは先進国で不要となった玩具や日常品を発展途上国へ安く輸出する。現地の人間を雇い、雇用を創出するのもこの会社の特色だ。
以前の自分が・・・いやあいつが知ったら嗤うかな、とマリクは一人で苦笑した。
「相変らず主人格サマはやる事が甘いねぇ」と笑いながら、だが冷ややかな目ではなく温かい目で自分を見てくれるだろうと信じている。
そう、アイシャとの結婚に踏み切れなかった最大の理由・・・それは彼の存在だった。
自分だけ結婚し幸せな家庭を築くと言う事は、彼への裏切りではないかと思っていたからだ。そして、自分もまだ、この世で一番愛しているのは・・・
迷った末、アイシャには正直に全てを打ち明けた。流石に前世の話やオカルトめいた話まで持ち出せば信じて貰えない事は分かっていたので、全ては自分の心の問題として話した。
それでも尚、自分は「もう一人の自分」を忘れられないのだと・・・
それを聞いたアイシャは悩み、惑い、だが結局それも全て受け入れると言ってくれた。
「貴方が愛して居ると言うもう一人の貴方を、私が愛せない訳が無いじゃない。だって私は貴方を愛しているのだもの」と。
そして漸く結婚へと踏み切れたのだ。
アイシャには本当に感謝しても感謝し切れない。こんな得体の知れない男を受け入れてくれた事を。
それでも尚マリクは本当の意味で彼女は分かってくれては居ないのだろうなと思っていた。彼女は「あいつ」をマリクが自分で作り出した心の一部だと思っている。だが、そんな物ではないのだ。そんな簡単な物では・・・
でもそれでも良い。全てを理解して貰えなくても。多くを理解してくれただけで感謝すべきなのだ。それは全て、自分の中にある墓標にのみ刻まれている事だから。自分達2人の事を本当に理解する事など、例え獏良やバクラであっても出来ないのだから。
絶対の絆。それは。
「そう言えば」
部屋を退出しようとしていたマリクの背中から、海馬は声をかけた。
「あいつは元気にしているのか?」
「え?」
マリクは訝しげに振り返った。
誰の事だろう?遊戯の動向なら自分なんかよりずっと海馬の方が気を配っている筈だ。相変らずまるで生涯の友の様に、海馬は遊戯を気にかけている。そう言ったら激しく否定するだろうが。
「獏良・・・了とか言ったか」
マリクはその大きな紫の瞳を益々丸くした。
何故ここで彼の名前が出てくる?海馬にとって一番どうでも良い・・・と言うかてっきり忘れているのだとばかり思っていたのに。
「ああ・・・元気にしているみたいだけど・・・どうしてそんな事ボクに聞くんだ?」
今は恋人と一緒にイタリア南部・シラクサにいる少年の姿が脳裏を過ぎる。まさか彼「等」の情報を耳に入れたのだろうか。まさか・・・
「貴様と『あの男』は色々と浅からぬ因縁があるようだからな。貴様に聞けば分かるかと思ったのだ。安心しろ、特に情報がある訳でもなく、詮索する気も無い」
まるでマリクの心を見透かしたように海馬はガラスに映った姿越しに言い、そのまま黙った。
マリクは訝しく思ったが、海馬が何も後を続けないので再び扉へと手をかけた。
その時、まるで独り言のように・・・マリクに聞かせるつもりなのかも分からない小さな声で、海馬は呟いた。
「そうか・・・まぁ『あの男』が副社長として元気にやっているようでは、オレの『妹』も心配要るまいな」
マリクは思わず耳を疑った。
まさか、まさかこの男、全ての記憶が消えた訳では・・・
動揺を隠せないマリクを尻目に、海馬は足早に窓から離れると、マリクが手をかけたノブを強引に開けるとそのまま扉の向こうへと去って行ってしまった。
呆然と取り残されたマリクは、だが海馬の先程の言葉に、悪意も不信さもまるでなかった事に驚愕を覚えていた。
むしろ温かみさえ感じられるその言葉が、マリクの脳裏からいつまでも離れなかった。