しかしまだ無邪気だったマリクが決定的に変わってしまった日があった。
それが、あの儀礼の日。
何があったのか、現場を目撃してしまったイシズから聞いた。
ショックで言葉を失ったリシドに、イシズはこのことをマリクに話さないように、と念を押した。
「マリクはあった事を全部忘れているのよ・・・。だから、思い出させないであげて。
父上も無かった事にしておきたいみたいだし・・・。
本当は貴方にも秘密にしておくつもりだったのよ、でもどうしても一人じゃ耐えられなくて・・・」
泣きじゃくるイシズをリシドは優しく慰めた。
「良く話してくれました。今まで御一人で秘密を抱えて、さぞ辛かった事でしょう。
これからはこのリシドもその秘密を共に背負っていきます。」
その瞬間、リシドの中で『闇』が囁いた。
それは別にマリクがまだ誰にも知られずに産みだしていた『闇人格』程はっきりとしたものではなかったけど、
それでも人は必ず心に『闇』を飼っている。
その『闇』は囁いた。
(いい気味だ)
リシドはそのどす黒い囁きに対し、必死で否定した。
何と恐ろしい事を。自分は何とあさましい事を。
そんな事、私は思ってなどいない!
だが、『闇』は囁き続けた。
(これがお前の本音さ、いい気味だと思ってるんだろ?自分から全てを奪ったあのガキが全てを奪われる様を見て。
本当は、愛してなんか居なかったくせに。
一回殺そうとして、ナイフを振り上げた手をなぜ下ろした?
あのまま殺っちまったら良かったのに。気付いてたんだろ?あのガキが自分で蠍に刺された事。
父親やお前に心配して欲しくて自分から刺されに行ったんだよ、分かってて。
何でそんな馬鹿なガキの為にお前があのクソ当主に殴られなきゃならない?罵倒されなきゃならない?
お前の責任じゃないのに。全てそうだ。
あのガキは何をしても自分の責任ではなくお前の責任になると見越しているから何でもするんだ。
自分の命を危険に曝してまでもお前を苦しめたいんだよ。
憎いだろう?ざまあ見ろと思ってんだろう?)
「やめろ!!」
リシドは絶叫した。
そう、『闇』の言った事は真実だった。
その事に気付いたリシドは凄まじい罪悪感に駆られた。
愛する『母』が命を賭して産み、自分に託した子を憎み、殺そうとした。
そう、何回この細く小さな首を捻ってしまおうかと考えた事か。
しかも実父に性的虐待をされるなどと言う状況に陥ったまだ幼い主人を、あまつさえいい気味だと・・・
リシドはその時決めたのだ。
自分は彼の本当の『影』になろうと。
何が何でも彼を守ろうと。
そうしてリシドは自分の顔に自ら刻印を彫った。
だが、それでも彼は当主の命には逆らえなかったのだ。
当主にマリク殺害を命令された時、リシドは一瞬返答に詰まった。
しかし続けて「やはりお前はイシュタールの血を引くものではないな、忠誠心の欠片も無いのか」
と続けられ、彼は承諾してしまった。
「ハイ、私めがマリク様を必ずこの手で弑し奉ります。」
そう言ってしまってから、リシドは戸口に小さな影が蹲っているのが見えた。
それはリシドがこっちに気付いたと知るや、たっと走り去ってしまった。
その瞬間、リシドの目の前は真っ暗になった。
当主は満足そうに笑った。
「そうか、それでこそ育ててやった甲斐があると言うものだ。よろしく頼んだぞ。
マリクが当主となってファラオに記憶を渡した、その暁には、必ずマリクを殺し、火で焼き尽くすのだ。」
その笑みに残酷な嘲笑が隠れていなかっただろうか。
この会話を幼いマリクが聞いていた事を知っていたのではないか。
だが、そんな事は今となっては知る由も無い。
マリクが父を殺してしまった今では。
リシドは自分の宣言を聞かれてしまった後、マリクとどう顔をあわせたら良いのか分からなかった。
胸に凄まじく重い鉛の塊でも入れられたような一夜を過ごし、
翌朝マリクの部屋にいつものように世話をしに行くと、マリクは何事も無かったかのように振舞った。
リシドは聞かれていなかったのか、あれは自分の見た幻覚だったのか、と僅かに安堵したが、
マリクは顔を洗い終わってぽつりと言った。
「ボク、リシドにだったら殺されても良いよ」
リシドは危うく顔を拭く用の布を取り落としてしまう所だった。
「何を・・・」
慌てるリシドに、マリクは少年らしく無邪気に笑った。
「お前がそんなに慌てるなんて滅多に無いな、面白いよ!」
そう言い残してマリクはさっさと部屋を出て行ってしまった。
そして、その話題はそれから二度と2人の口に上る事は無かったのだ。
彼が、いや正確には彼の闇人格が当主たる父を殺すまで。
イシズとリシドは、マリクに父の死が彼の産みだした闇人格による殺害であると言う事をひた隠しにした。
その事実に直面したら、その脆い精神はおそらく簡単に崩壊してしまうであろうと考えたからだ。
マリクは謎の男の言葉を信じ、ファラオの魂に復讐する事を決意した。
それを、イシズもリシドも止められなかった。
マリクは墓守の古代から一族が守り続けてきた、
ファラオの記憶を示す『千年アイテム』の一つである千年錫杖を持って『外』へ出た。
当然リシドもそれに従った。
イシズも一旦は共に『外』へと出たが、『千年タウク』を身に付けてから様子がおかしくなり、ある日姿を消した。
恐らく『千年タウク』の未来予知の力で何らかの『おぼろげな未来』に導かれての事だったのだろう。
姿を消す前にイシズはリシドにマリクを頼む、と言い残した。
まるで彼女等の『母』であるイシュタール夫人のように。
自分はもう傍に居てあげる事は出来ない。
その代わりにやるべき事があるのだ、と。
それ以来マリクはリシドだけを頼りにひた走ってきた。
ファラオの魂を抹消し復讐する事だけを目的として。
レアカードを狩る闇組織グールズを結成し、
ファラオの記憶の在りかを示す三枚の神のカードを手に入れて自らが王となる事さえも目論んだ。
しかし、それは本当は酷く虚しい行為である事を、リシドは良く分かっていた。
それでも止められなかったのだ。
もし真実を告げれば、マリクは生きていく『理由』を失う。
そうなったらこの少年はいとも簡単に命を投げ出してしまうだろう。
リシドは出来なかった。
それは、どうしても。
それが卑怯な事だと分かっていながら。
そう、こんな行為を自分への当て付けにやり続けるしかないマリクを見ながらも、止める事も、咎める事すら出来ない。
最初は勿論止めさせようとした。
父親からの性的虐待の記憶から逃れる為に、リシドに自分を抱かせようとするマリクをリシドは見ていられなかった。
それでも請われるまま、抱いた。
震える細い体になるべく負担をかけないよう、優しく、丁寧に。
だがそれがマリクには不満なのだと言う。
もっと激しく抱け、と命令する主人に対し抗う事こそ無かったが、それでもリシドには出来なかった。
彼を壊すような行為など。
それが、マリクの癪に障っている事は分かっている。
だが、そんな事は出来なかった。
マリクは無理難題ばかりを言う。
リシドを困らせるような命令ばかりをする。
それは以前と同じ様な歪んだ愛情確認なのだとばかりリシドは思っていた。
だから、黙って従う。
それが自分に出来る唯一の『忠誠』だから。
そしてそれが唯一の『償い』だから。
あの時救ってやれなかったばかりか、本心で醜い感情を抱いてしまった事に対しての。
そんなリシドの当て付けの為に、マリクは他のグールズの男や行きずりの男達とも関係を持つようになってしまった。
リシドが止めさせようとしても、リシドが困っているのが分かるとマリクは益々止めようとはしない。
行動はエスカレートするばかりだった。
だから仕方が無くリシドは見て見ぬ振りをした。
それでもいつも後で尻拭いをするのはリシドだった。
グールズの人間なら洗脳してあるので心配は無いのだが、最近のマリクは洗脳していない人間とも関係を簡単に結んでしまう。
とても見ていられる物ではなかった。
だからリシドはこっそり彼を監視し続けて居るのだ。
主人の身に、危険が迫らないよう。
リシドの心の中には、確かに今でもマリクに対する消えない憎悪の根が巣食っている。
だが、それをリシドは凄まじい精神力で封じ込めていた。
リシドにとってマリクは全てだった。
それは、勿論主人としてもだったが、それ以上に『全て』だったのだ。
愛情も憎悪も行動も感情も全てをマリクによって縛られていた。
そう言う風に育ったのだから。
それはマリクも同じだったが。
リシドがマリクに抱いている感情は確かに『イシュタール家の跡取り』と言う感情だけではなかった。
確かに押し殺した憎悪もあった。
イシュタール家の一員で居たい、と言う感情が先立つ部分もあった。
しかしそれ以上に、恐らくマリクが思っている以上に、マリクに対する愛情と言う物はあったのだ。
それを忠誠心と名付けるか、弟に対するような家族愛なのか、それとも恋愛感情なのかは本人にも分からなかったが。
彼を傷付ける者は許さなかった。
例えそれが、自分であっても。
そのリシドの気配りが逆にマリクを追い詰めているとは、リシドは気付いていなかった。