「・・・なぜ返事をしない?」

マリクは硬い声でリシドに迫った。

リシドは押し黙ったままだ。

「何とか言えよ!」

つい手が出てしまった。

ぱーん、と高い音が廊下に響き渡る。

暫し沈黙が覆った。

マリクは、リシドの左頬を・・・つまりあの刻印が彫られた場所を叩いた手を宙にそのままの状態で、呟いた。

「・・・こんな事されても、まだボクに忠誠を誓ってるって言うのか?」

リシドも殴られた姿勢のまま顔色一つ変えずに静かな声で答えた。

「ハイ」

マリクはその声にピクリ、と僅かに頬を引きつらせた。

「・・・殴り返せばいいだろ」

「そのような事は出来ません」

即座に否定したリシドに、手を下ろして再びマリクは食って掛かった。

「なぜだ!?それはボクが大事なイシュタール家の跡取りだからか!!
お前はイシュタール家に絶対の忠誠を誓う犬だもんな!!当主たるボクに逆らえるはずが無い!」

分かっているならなぜ訊く、とリシドは思う。

いや、マリクは否定して欲しいのだ。

自分がイシュタール家の跡取りだから忠誠を誓われているのではないのだと言って欲しいのだ。

だから、そう分かるから、その通り返す。

「いいえ、私はマリク様をイシュタール家の当主として以上に愛しております。」

その言葉に、マリクの表情は凍りついたように沈静化した。

そして大きく溜息を付いた。

「・・・そうか。もういい。部屋に戻る。お前は今夜は来るな。誰も部屋に近づけさせるなよ。」

さっきまで「抱け」と言っていたのがうって変わって、
マリクは動かないリシドの横を逃げるようにして立ち去ってしまった。

 

一人部屋に帰り、マリクは唇を思い切り噛んだ。

後から後から涙が出てくる。

煌々と灯りの付いた広いスウィートルームは一人では大きすぎて、
マリクはその真中に設置された豪奢なベッドのシーツに顔を埋めた。

押し殺しても嗚咽が漏れ出てくる。

どうして。

どうして罵ってくれない。

汚らわしい淫売め、と蔑んでくれない。

どうしてこんな愚かな事、と言って力づくでも止めさせてくれない。

どうしてその腕で慰めてくれない。

過多な欲求をしているのだと分かっていても、虚しさは止められない。

「どうして・・・」

掠れた声が漏れる。

「どうしていつもボクの言うとおりにしか動かないんだ・・・」

欲しい言葉を的確にくれる。

まるでそれを先読みしているかのように。

実際、先読みしているのだ。

本心で思った言葉なんて決してくれない。

本当は憎んでいるくせに。

本当は蔑んでいるくせに。

本当にお前が求めているのは、いつだって『イシュタール家』の一員としての称号なのに。

ボクの方なんて全く見ちゃ居ない癖に。

本音を無表情な仮面の下に隠し、優しさと言う凶器でマリクを切り刻み、決して自分に全てを曝け出してくれない。

それはつまり、信用されていないと言う事だ。

それはつまり、話すに値しない人間だと思われていると言う事だ。

そんな人間、洗脳しているのと何処が違う。

結局周りに人は増えても、それは全て洗脳によって作れ出された自分の思うとおりに動く『人形』に過ぎない。

それは最早『人間』ではない。

『人形』達に囲まれて、自分は永遠に孤独なままだ。

あの地下の世界と同じ様に。

 

軽蔑されてもいいのだ。

罵倒されても、殴られてもいい。

唾を吐きかけられてもいい。

それでもその方がどれだけマシか。

その方がどれだけ、本当に『自分を見ていてくれる』か。

優しさなんかまやかしだ。

全て都合の良い様に取り繕って、いつもそれでお前はボクを守っているつもりだろうが、
それがどれだけボクを傷付けているのか、お前に分かるか?

だから、そう言う風に振舞ってるのに。

だから、お前がボクを軽蔑するように、憎むように振舞ってるのに。

「罵倒しろよ・・・」

此処には居ない側近にマリクは命じた。

「命令なんか無視して、ボクを失望させろよ・・・」

嗚咽が混じって最早何を言っているのか自分でもわからない。

「憎んでいるんだ、殺してやりたいくらい憎んでいるんだ、って言えよ・・・!」

シーツに歯を立てて声を押し殺しながら、マリクは叫ぶ。

「ボクをめちゃくちゃにしろよ、もうこんなの終わらせてよ・・・!!」

その途端マリクの目の前にさっきまでやっていた光景がフラッシュバックした。

自分の体をなぞる男の指。

卑猥な音。

下卑た嗤い。

喘ぐ自分の声。

凄まじい吐き気に襲われた。

望んでやった行為なのに、絶対に慣れる事は無い。

それでも止められないのだ。

なぜだか自分でもわからない。

マリクはトイレまで行こうと立ち上がりかけたが、耐えられずその場に蹲って嘔吐した。

苦しくて苦しくて涙が出る。

シーツを握り締め、身を捩ると、胃が裏返りそうな嘔吐感が何度もこみ上げる。

 

「もう、ボクを殺してよ・・・」

 

終わりの無い絶望。

どこまで行っても見えない光。

漸く『外』に出られたのに、明るい太陽の照らす『外』もまた闇だった。

そう、この『生』こそが闇。

焦がれた太陽は、昏かった。

 

そんな彼をじっと見つめる『闇』の中の瞳。

それもまた、苦痛に満ちていた。

(馬鹿だな。だからオレに全部預ければ楽になれるのに。)

辛い。

ここから出られさえすれば。

そうすれば『彼』を救ってあげられるのに。

望み通り全てを壊し、一切をめちゃくちゃにし、そして憎いリシドを殺せるのに。

(お前を本当に分かってやれるのは、救ってやれるのは、オレだけなんだよ)

『闇』もまた叫ぶ。

届かないと知りながら。

指を伸ばしても、素通りしていく。

永遠に届かない『光』。

(ここから出られさえすれば・・・オレがお前をめちゃくちゃに抱いてやるのに。壊してやれるのに・・・)

自ら誘って男に抱かれながら、毎回毎回内心苦痛にもがくマリクに『闇』は耐えられなかった。

(他の奴になんかにお前を指一本触れさせたくねぇ・・・!
お前はオレだけのものなのに。オレはずっとお前だけを見てるのに!)

発狂しそうな欲情を抱え、『闇』はマリクを凝視し続けた。

(触れたい・・・)

いやもう発狂などとっくにしているか。

(壊したい・・・)

狂っているのかなどと言う事さえおかしいかも知れない。

なぜなら彼は『闇』なのだから。

(お前のすぐ傍に、こんなにすぐ近くにオレが居るんだ。
何も寂しい事なんか無いのに。何も恐れる事なんか無いのに。)

だからオレに身を委ねろよ、と『闇』は悲痛に囁く。

(お前を心から愛しているのはオレだけなんだよ!!)

闇の中でマリクを見つめ続けるマリクの『闇』は絶望的に甘く呟いた。

(リシドなんかに殺させやしない、オレが必ずこの手でお前を殺してやるからなぁ・・・)

彼はそれが最大の愛情表現だと思って疑わなかった。

ただその細い頚に指を絡ませ、骨をへし折る瞬間の甘美さを想起し彼は恍惚となった。

 

ただ、愛しい者の為に。

全ては空回り、歯車は破滅へとひたすらに動いていった。

これすらもファラオの意志だと言うのなら、これが呪いでなくて何であろう。

全ての者をあまねく照らす慈悲深き太陽は、今日も昏い光を放ち続けていた。

 

[続]

 

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