闇は、深い。
全てを暗い尽くすかのような深い闇が自分を蝕んで行くのを、マリクはただ黙って見ていた。
寒い。とにかく物凄く寒い。
痛みはとうの昔に消えてしまった。
慣れてしまったのかもしれない。
この強烈な寒さもいずれ消えるだろう。
その時が、自分にとって最後の時だ。
もう、恐怖すら感じない。
むしろ安らかでさえある。
もう、何も恐れる必要は、無い。
何かに怯える事も、追い立てられるように手に入らない何かを必死で求め続ける事も、
眠れない夜を時計の秒針を数えてやり過ごす事も、全身を貫く恐怖と不安を怒りと憎悪に換えて生きて行く事も・・・。
もう疲れた。
マリクは静かに微笑んだ。
リシドに最後のお別れを言った。
もう十分だ。
姉さんも、きっと悲しむ。リシドも。
それは本当に申し訳ないと思う。
でも、もういいんだ。
これで彼らも解放されるだろう。
自分さえ居なければ背負う事の無かった苦しみも、もう終る。
幸せに、どうか幸せに、それだけを切に願う。
どうか自分の闇の心が彼らを喰らい尽してしまわぬ様、ただ祈る事しか自分には出来ないけれど。
祈る・・・?誰にだろう。一体、何の神に祈るのだろう。
ここには誰も居ない。
古代エジプトの神々も、現在のエジプト人の多くが信じているアラーも、古いキリスト教の一派コプト教の神も、
キリストも、日本人が信じているのかわからない仏陀や神道の神も、誰も居ない。
何も、無い。
ただ闇だけだ・・・。
でも、これが当然だと思う。
奴の言った事は正しい。
本当は、これこそが自分の本当に願いだったのだと、やっと気付いた。
父上を殺めた罪、沢山の人間達を苦しめた罪、逆恨みでファラオの命を狙った罪・・・。
そう、自分に相応しい最後だ。
こんな罪深い存在・・・初めから無ければ良かったのに。
(母上・・・)
マリクは呼んでみた。
顔も知らない自分の母を。
(本当に・・・ごめんなさい・・・母上の命を奪って生まれて来たのに・・・ボクは結局一点の光も見つけられなかった。
あの暗い地下を出ても、ボクの中にあるのは闇だけだった。
リシドはずっと側に居てくれた、姉さんだってボクを助けようと一生懸命してくれたのに・・・。
結局ボクは駄目なんだ・・・あの時、父上の命を奪った時に・・・死んで居れば良かったのに・・・
そうすればこんなに罪を重ねる事も無かった・・・もう・・・遅すぎるかもしれないけど・・・。
それでも母上達とは同じ所には行けません。ボクがこれから行くのは死後の世界でもない・・・ただ、闇だけの世界・・・
でも、ここがボクに相応しいんです。)
寒い・・・
寒いよ・・・
マリクは両腕で膝を抱えようとした。
その膝の感覚が、もうすでに無い。両腕の感覚さえも・・・。
意識が薄れて行き、ただ闇が・・・
カッ
何かが強烈に光った。
(何・・・?)
マリクは両目を細めた。だが、今は闇しか見えない。
(・・・ク・・・リク・・・マ・・・マリク!)
マリクの閉ざされたはずの耳に、ぼんやりと声が響いてきた。ある時は遠く、ある時はとても近く。
遠ざかるようで、近づいてくるようで、懐かしいような、胸が締め付けられるような・・・。
(誰の声・・・?誰だ・・・?)
マリクは必死で首を上げた。この声を聞き逃さないように。
「マリク!!マリク!返事をしやがれこのヘタレ糞ガキが!!返事しねえとぶっ殺すぞ!!」
この口の悪さ。元は声変わりもしていないような可憐な声なのに、妙にドスの聞いた声。
(あ・・・あ・・・)
返事をしようとするが声が出ない。
「マリク!!消えちまったんじゃねえだろうな・・・クソッ、返事をしろ!!マリク!」
マリクは残っていた全身の力を振り絞って声を上げた。
「バ・・・バクラ!!!」
その瞬間、一気に視界が開けた。
漆黒の闇の中、浮かび上がるような白。長い髪も、滑らかな肌も、全て白く発光していた。
その中で燃え上がる炎のような真紅。その双眸がマリクを見下ろしていた。
「・・・なんだ、脅かしやがって。こんな所に居やがったのか。このオレ様がわざわざ来てやったんだ、無駄骨になる所だったぜ。」
口の端を吊り上げて笑う、その不敵な笑みもそのまま。
マリクは呆然とその顔を凝視した。
ただ蹲ってあんぐりと自分の顔を見上げているマリクに、バクラは呆れて膝を付いた。
「お〜い、しっかりしろよ、クソガキ。」
その肩を掴んで揺さぶるが、マリクはまだ呆然としている。
「何で・・・お前が・・・ここにいるんだ・・・」
「はあ?」
マリクの問いにバクラは眉をしかめた。
「折角来てやったのに何だ?その態度は。もちっと感謝しな。」
「何で・・・来た・・・」
「んなの決まってんじゃねーか。散歩ですなんて言うわけねーだろ、バーカ。
あの野郎がぶっ殺されねえ限りオレ様・・・いや、宿主の身体は元に戻んねーんだよ。
いつまで経ってもこのままじゃやってらんねーぜ。だからてめえにしっかりして貰わないと困るんだよ、『主人格様』!」
「今のボクはもう・・・『主人格』じゃない・・・」
偉そうに顎をそらしたバクラとは対照的にマリクは顔を伏せた。
淡い金色の髪が整った褐色の顔に影を落とす。
「オイ!」
バクラはその顎を掴んで引き上げた。
マリクはバクラの顔を見て困惑した表情を浮かべたが、すぐに拗ねたように視線を逸らした。
「・・・もう・・・ボクにはあいつを止める力なんて残ってない・・・。ただ闇に喰われるのを待つだけだ。」
「チッ」
バクラは舌打ちしてもう一度強引にマリクの顔を自分の方に向き直らせる。
「それで済むと思ってんのかよ。元はと言えばテメェの蒔いた種だろ?ええ?どうにかしろよ!」
するとみるみるマリクの大きな紫の瞳の中に透明な液体が浮かび始めたのでバクラは少し目を見開いた。
「だって・・・仕方ないだろ!もうこれ以外ボクに出来る事は無いんだ!
大丈夫・・・あいつは・・・遊戯が倒してくれるさ・・・。そうしたらお前の、いやお前の宿主の身体も元に戻る・・・」
泣いている顔を見られたくなくて、マリクは顔を伏せようとしたが、バクラに顎を掴まれていて顔を動かす事が出来ない。
情けなくてまた涙が溢れてしまう。
(最後の最後まで、どうしてこう惨めな所ばかりこいつには晒してしまうんだろう・・・。)
どうしようもなく悔しくて、マリクはバクラの腕を両腕で取り払った。
その勢いのまま立って、後ろ向きになったままバクラから離れた。
「もう・・・いいだろ、十分分かっただろ。ボクにはもうどうする事も出来ないって・・・。
こんな所にいたって時間の無駄だよ。どうせなら遊戯の所へ行って加勢して来いよ。助言ぐらい出来るだろ。」
後ろでバクラが溜息をつく声が聞こえる。
彼は帰るだろう。振り向きもせず。役立たずは要らない筈だ。彼が一番大事に思っているのは彼の宿主、獏良了。
決して自分ではない。今だって宿主の身体が戻らない事が彼の一番の問題なのだ。
そうだ、こんな所にまで来てくれただけでも有り難いと思うべきなのだ。こんな自分の所へ・・・。
「そんで、お前は?」
後ろから降ってきた思わぬ問いに、マリクは眼を開いた。
「・・・。」
マリクが返事を出来ないで居ると、突然背中に衝撃が走った。
蹴られたのだとわかって、マリクは咄嗟に後ろを振り向いた。
「何す・・・!!」
そうして振り返って、バクラがいつに無く真面目な顔をしているのに気が付き、マリクは動きを止めた。