ひら・・・
獏良は、そしてバクラも目を疑った。
古い巨木がそびえ立ち、獏良の頭上に薄紅の雨を降らせていた。
「信じられない・・・いつもはまだ蕾も付いていないはずなのに・・・。綺麗だ・・・」
(オイ宿主、待てよ!)
「何?怖いの?3000年の盗賊王様ともあろう者が。」
良く、似合う。
獏良はそっとそのごつごつとした太い幹に擦り寄った。
(宿主・・・)
一気に発情してしまったバクラとは対照的に、当の獏良は淡々と呟いた。
「この木・・・すごい老齢なんだね・・・100年は経ってるね。いや、もっとだろうな・・・見当もつかないけど・・・。でも、凄いな・・・。江戸時代くらいからずっとここに立ってるんだね・・・。」
その長い睫毛に高く上りつつある太陽が影を落とす。
「どうして・・・生物の命には、こんなに差があるんだろう・・・。」
くす、と獏良は笑う。
その問いに、バクラは鼻を鳴らした。
意外、と言うように獏良は眉を上げた。
自分の『死』も含めてかと聞こうとして、獏良はやめた。
『死』と言うのは永遠の喪失だ。
バクラは、まだ、自分の傍に居る。
(宿主?)
黙りこくった獏良にバクラが語りかける。
「天音はね、桜が好きだったんだ。」
バクラは返答しない。
「とっても、良い子だったんだよ。可愛くて。ボクに似てなくて。髪も白くなくて、茶味がかった黒で。いつも笑顔で。皆に愛されてた。あ、そうだ、笑うとえくぼが出来たんだよ。
獏良は訊かれても居ないのに、奔流の様に止め処も無く喋る。
バクラは耐え切れなくなって遮った。
「死ぬべきだったのは、ボクなのに。」
バクラは舌打ちした。
(死ぬべきだったとか言って、じゃあ死ぬのかよ?)
黙りこくった獏良に、追い討ちをかけるようにバクラは言った。
「出来るならそうしたい。」
あっさり肯定した獏良に、バクラは絶句した。
「ボクが死んで天音が生き返るなら、ボクはいつだってこの命を差し出すよ。でも、それが出来ないから、ボクは何となく生きてる。・・・何でだろう。」
最後の台詞は自問自答か。
(そんな事されたら、オレ様が困る。)
「替わりなら幾らでも居るでしょ?遊戯君の傍に居て、体を乗っ取れそうな奴なら。」
笑った獏良にバクラはやはり思わず突き放すような事を言ってしまった。
獏良の笑みの温度が変わった。
そう言って、獏良は桜の木の下を離れようとした。
その瞬間、千年リングが光を放った。
「・・・。」
それは獏良が押し倒されているからで、バクラが彼を押さえつけているからで、そして、バクラは怒っていた。
何で、怒っているんだろう。
「今生きてるのは、お前だろ?」
当然だ、何を言うんだ?
「オレ様は、生きてるお前に用があるんだ。死んだ妹の事なんか知ったこっちゃねえ。勝手に車に轢かれて死んだガキの事なんざな。」
獏良はきっとバクラを見上げた。
「それで悪いのは自分です?それで自分を責めてどうなるってんだ?死んだ奴は生きかえらねえ。たとえ手紙を毎日書き続けてもな。」
「分かってるよ・・・」
「それでも、ボクは好きだったんだ・・・天音の事が、好きだったんだ・・・。大事な妹だった。生きてる時は気づかなかった。ずっと、嫉妬してた。母さんや父さんが必要としてるのはボクじゃなくて天音だって。だから、消えればいいと思ってた。それが・・・本当になるなんて・・・。どうすればいいのか、わからないんだ。どうすれば、いいのか・・・!」
もう獏良は微笑んでいなかった。
バクラは、ぽつ、と言った。
ぐっ、と獏良の体を引き起こして抱き締めた。
「オレ様が、必要としてるのはお前だ。生きた、お前なんだよ。オレ様はな、お前は怒るかも知れねえが、死んだのがお前の妹で良かった。お前じゃなくて、良かった。生きてるのが、今生きてるのがお前で良かった。もしそれが神や運命の仕業なら、感謝してやるぜ。」
『感謝してやる』
一枚の薄い花弁が、獏良の目の前を通り過ぎた。
「桜・・・?」
まさか、この時期に。
だが、これは紛れもなく・・・
獏良はふらふらと歩き出した。
その、薄紅色の花弁に導かれるようにして。
この時期に、まさか、桜が咲いているとは・・・。
そのは幹は空へ向かって伸び、ささくれ立ちながらも、その生きてきた歳月の重さを感じさせる。
大地を抉るようにして発達した根が巨木を押し上げ、うねるその根はまるで生物のようだ。
そして無数の枝が、血に染まったような花びらの雨を降らせていた。
獏良は恍惚と引き寄せられる様にその木に近づいていった。
バクラは慌てた。
砂漠育ちのバクラにとってこんな老木は気味が悪いだけだ。
確かにオアシスには発達した巨木はあったが、熱帯の木とは違う近寄りがたさがこの木にはあった。
普段自慢している事を揶揄され、バクラは憮然となった。
(怖いわけねえだろ!たかが木じゃねーか。)
そう言いつつ何となく不気味さを拭い切れないバクラに構わず、獏良はその桜の木の方へと歩いていく。
華奢な足に履いたスニーカーの下でしゃらしゃらと乾いた音を立てて花びらが潰され、その純白の雪のような髪に、ちらちらと薄紅の雪が降る。
それが堪らなく扇情的で、バクラは一瞬どきりとした。
その仕草が一瞬ハッとするほど色っぽく感じたのは、バクラの錯覚なのだろうか。
だが、愛しそうにその木の幹を愛撫する白くて細い指と、その恍惚とした表情に、バクラは精神世界で自分の『躰』を愛撫している時の宿主を想起して、体中にぞくりと静電気が走るのを感じ取った。
精神世界ではないので、直接触ることが出来ないのが口惜しい。
それでも精一杯『宿主の体の領分を侵さないように』抱きしめた。
このまま精神世界へ無理矢理直行してしまっても構わないのだが、それではこの花と宿主の艶かしい取り合わせが消えてしまう。
それは嫌だった。
取り合えずこの欲情は帰ってからに取っておこう、と彼は珍しく殊勝に思った。
誰かに問い掛けるような、自問自答のような台詞に、バクラは即座に反応した。
(けっ、オレ様はこの木よりも長い年月を過ごしてるぜ!このリングの中でな。)
だがどこか乾いた笑いだった。
「そうだね・・・なのに天音は、何でたったの10歳で死ななきゃならなかったんだろう・・・。神様とか・・・運命って・・・本当にあるとしたらホント残酷だね・・・。」
(そんなの知るかよ。オレ様は万能の神とか運命を信じてねーからな。生物の生き死になんて結局偶然の産物なのさ。)
「まさか君がそういう事言うなんてね・・・。あり得ない生命体の代表みたいな君が。」
(意外か?だがオレ様は結構シビアだぜ?なんてったって数多の死を見てきたからな。3000年間。)
バクラは、死んではいない。
少なくとも、自分の中では。
もう二度と戻らない、会えない、と言う事。
自分が小さい頃は、『それが分かっていない者達』がたまに必死で自分の『生』を語りかけてくるのを聞いたけれど、結局それだって最後は消えるしかないのだ。
今は、まだ。
獏良は、全然違う事を言った。
天真爛漫って言葉がぴったりで・・・信じられないかもしれないけど、スポーツとか外で遊ぶのが大好きな活発な子だったんだ。ボクとは正反対で。明るくて、前向きで、友達もいっぱい居て、どこでもすぐに馴染めて、頭も良くて、運動神経も良くて、歌も巧くて、ゲームだけはボクに敵わなくていつも膨れてたけど」
バクラはイライラした。
天音は良い子だった、天音は可愛かった、天音は皆に愛されてた、
じゃあお前は?
お前は?
その賛美は妹が死んだ時に妹の知り合いが口を揃えて言った言葉だろう?
その隣で、お前はただ縮こまってたのか?
だれも比較したい訳じゃなかったのに、お前は自分をどう思ったんだ?
(だから何だ。)
またこれか。
一体何なんだこいつは。
苛立ちは絶頂に達す。
(そんなに死にたきゃさっさと死んじまいな。それでてめえの妹が生き返るならな。)
それとも回答の無い問いを、バクラに仕掛けたのか。
バクラは正直な感想を言った。
ここでいつものようにじゃあ死ねと突き放したら、今の宿主は本当にあっさりこの木の下で首を括りそうだ。
(生憎とオレ様は面食いでな。てめえみたいな上玉そうはいねえんだよなあ。)
「ボクの体が目当てなんだ?あ、当たり前か。」
(当然だろ?わかってんじゃねえか。用が済んだら出てくから、それまで大人しくオレ様のモンでいな?それとも何か?お前、オレ様に『必要とされたがってる』なんて訳じゃねえよなあ?)
「・・・分かってるよ。ボクが用済みになる日までは、死なないで居るから。」
獏良は、目を瞬いた。
どうして、精神世界なのに桜の花びらが散ってるんだろう?
そして、どうして自分の顔に花びらが降ってくるんだろう?
目に入りそうだ。
でも、それよりも近くに、バクラの顔がある。
こいつは怒りっぽいからな。
でも、目が真剣だ。
獏良は首をちょっと傾げた。
「天音は悪くない。」
バクラがいくらやめさせようとしてもやめなかった獏良の日課。
追い詰められて、獏良は少し動揺した声をあげた。
僅かに、潤んでいる。
『悲しみ』と言う感情が剥き出しになっている。
それは、珍しい事だった。
「わからないでもねえよ。オレ様もな、大量に身内を失った事があってよ。そん時はやっぱ色々考えたさ。でもな、これだけは言えるぜ。」
いかにもバクラらしい物言いに、獏良は笑った。
少し泣き笑いだったけれど、とても、暖かい笑みだった。